我儘考

  • 第1章 名古屋シネマテークの閉館
      • 原因はコロナ禍ではない
      • 書籍「小さな映画館から」
      • シネマテークのトイレ
  • 第2章 退廃芸術と「自由からの逃走」
      • 退廃芸術
      • 自由からの逃走
      • 全体主義
      • 「積極的」自由
      • 言葉とウソ
  • 第3章 ウソの社会
      • 惑星プリュクの価値観
      • 地球の価値観
      • ウソのお買い物
      • ウソのお仕事
      • 弾圧
  • 第4章 ウソの社会が追い込む人々
      • オウムの社会とその外側
      • 周縁とその内側の社会
      • 結局、何が言いたいのか
  • 第5章 本について
      • 歴史的な本
      • Dynabookとオープンソース
      • 支払い方法
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我儘考
名古屋シネマテークの場合
目次
  • 第 1 章
    名古屋シネマテークの閉館
  • 第 2 章
    退廃芸術と「自由からの逃走」
  • 第 3 章
    ウソの社会
  • 第 4 章
    ウソの社会が追い込む人々
  • 第 5 章
    本について
読む

第 1 章
名古屋シネマテークの閉館

名古屋シネマテークの入口、ロビー、場内

2023年7月に名古屋シネマテーク(以下シネマテークと呼びます 群馬県にはシネマテークたかさきがありますし、それ以外にもシネマテークがつく映画館は全世界に複数あります。ここでのシネマテークという略は地元民からの呼称として捉えてください )は閉館しました。席数は40、スクリーンは一つだけの小さな映画館です。40年以上に渡り、厳選された映画を上映し続け、多くの映画関係者や映画ファンに愛された存在でした。私の周りにあふれる悲しみの声には「これが時代の流れである」という諦念が多分に含まれています。
しかし、私はむしろ社会システムの欠陥に憤りを感じます。現在の自由市場の上にはファシズムが形成されており、退廃芸術を弾圧したナチスと同じ構造を現在の社会に見ることができるからです。この弾圧を認識し抗うべきであることを本書で主張したいと思います。

原因はコロナ禍ではない

シネマテークのホームページに閉館までの経緯が説明されています。

■既に2020年3月には、危険水域に達しておりました。
この段階で閉館も考慮しましたが、【ミニシアター・エイド】の話題性から、及び、有志が立ち上げていただいた【シネマテーク・エイド】などで支援が集まります。さらに政府・行政からの支援策も加わり、長らえてまいりました。この間の蓄えが消えたときが【やめ時】と決めていました。昨年から、政府・行政の支援が打ち切られたことにより、赤字幅が大幅に拡大します。
■現在、週18万円前後の赤字が続いています。
この調子で推移すると、7月が限界点に達します。年間換算では、900万円前後のマイナスです。閉館選択の苦渋をご理解下さることを御願いします。シネマテークホームページより抜粋 名古屋シネマテーク ホームページ

具体的な数字まで示して状況が説明されています。コロナ禍の自粛要請は映画業界の収益に大きなダメージを与えたことは確かですが、閉館の原因をコロナに矮小化して欲しくないというメッセージを読み取れます。データを元に映画業界の状況を確認しておきましょう。

一般社団法人日本映画製作者連盟より

一般社団法人日本映画製作者連盟のデータによると、2000年以降の映画の興行収入は増減を繰り返しながらも概ね横ばいで、やはりコロナ禍が始まった2020年の落ち込みが目立ちます。しかしコロナ前に注目してみると、2013年ごろから上昇傾向で、2019年が過去最高となっています。業界が一番盛り上がっていた時期もシネマテークの経営は芳しくなかったようです。
また日本映画製作者連盟は全映画館のスクリーンの総数の推移も集計しています。スクリーンの数は全体では上昇傾向ですが、シネコンが持っているスクリーン数の増加によって増えているようです。それ以外の映画館のスクリーンはむしろ減少しています。2015年頃までほぼ単調に減少し、それ以降は微減が続いているようです。

興行通信社 歴代ランキングより

次に興行通信社の歴代の興行収入TOP100のデータから公開日と興行収入の分布をプロットしました。歴代興行収入一位の400億円超えは2020年10月に公開された"劇場版「鬼滅の刃」無限列車編"です。鬼滅の刃だけでなく、コロナ禍以降も断続的にヒット作が出ています。ヒット作とそれ以外のギャップが広がっているようです。

書籍「小さな映画館から」

2019年1月にシネマテーク支配人を勤めていた平野勇治さんが亡くなられました。平野さんはシネマテークの前身である「ナゴヤシネアスト」からのスタッフを続けられた方です。平野さんが寄稿した文章をまとめて「小さな映画館から」という本として出版されています。この本では、上映される映画の紹介や映画に対する考え、また映画館の苦境が記されています。

小さな映画館から
2021 日本
平野 勇次(著)
出版社: リトル・モア
2019年に急逝されたシネマテーク支配人平野勇次の映画人生を綴った文章を集めた遺稿集

平野さんは映画全体を平等な視点で見つめており、例えばジョージ・ルーカスの最新技術への探求心を語っていたり、携帯で手軽にきれいな画質の映画が見られる時代を歓迎していたりします。また、フィルムからデジタルに時代が変わることで映画の可能性の広がりへの期待を語りながらも、それはシネコンにメリットが大きく、ミニシアターには負担が大きいという経営的な苦境を吐露しています。

要するに我々は、ハリウッドを頂点とする映画業界からこう言われているのだろう。「この機会に、どうぞご遠慮なくお引取りください」。さて、どうするか?「小さな映画館から」デジタル化は映画の革命?

我々は、「映画」という大きな道の端っこにある雑草のようなもので、その運命は、道の真ん中を走っている立派な車次第だということを痛感する。車窓から投げられた水が助けになることもあれば、轢かれてあえなく消えてしまうこともある…。「小さな映画館から」デジタル化は映画の革命?

人類の歴史は常に様々な始まりと終わりの上に成り立っています。市場原理に従うならば、経営が続けられないということはシネマテークは役目を終えたと消費者から判断されたということになります。新しい時代に新しい文化が花開けば良い、それならば、むしろシネマテークの役目は終わっていません。シネマテークは新しい文化のための場であろうとしましたし、実際にそのような場でした。勅使河原宏監督の「アントニー・ガウディー」が初期のシネマテークの苦境から脱却する興行となったことについて、次のようにコメントしています。

興行においては、観客の欲望の半歩先をいくことが大切らしいが、その原則にはまったヒットだったと思う。しかし、おこがましい言い方を許してもらえるなら、心意気だけは五歩、十歩先をいきたい。たとえ「ガウディ」のようなヒットは望めなくても、私達が面白いと思ったものは世評にとらわれず、これからも観客に投げかけていきたいのだ。「小さな映画館から」ガウディ 武満徹と共通点

平野さんは経営上のバランスについて苦悩を続けていましたが、それでも損得を超えて観客に見せたいものがあったようです。

シネマテークの閉館の背景には鑑賞方法の変化という面もあるでしょう。映画もネット配信されるようになり自宅や移動中にスマホから気軽に見ることができるようになりました。蓄積された膨大なデータによって、ユーザーの好みに最適化された満足度の高い映画を提案することも可能です。また制作側も撮影・編集・公開の難易度は下がり、膨大な数の作品が次々と生まれています。今後もそのような環境に合わせた新しい映画、もしくは映画の先にある表現が作られることでしょう。
そのような世界に至っても、シネマテークの役割はなお一層高いものであると言えます。シネマテークは娯楽のために映画を消費するための場というより、世界を解像度高くみるための鑑賞眼を鍛える場であるからです。シネマテークで上映された映画は観衆に歩み寄らない作品も多く、観衆の側が能動的に見て、自身で考えることがしばしば要求されます。普段の生活で見落とされるがちな様々な国の映画や様々なマイノリティの視点で語る映画 アルジェリアの50年代-60年代の植民地支配への抵抗を描いた「アルジェの戦い」、 ルーマニアのスラムの中で子どもたちだけで生きる「トトとふたりの姉」、 タイの娼婦と戦争と日本をつなぐ物語を描く「バンコクナイツ」など や上映時間が異常に長い映画 上映時間7時間18分の「サタンタンゴ」、上映時間9時間11分の「鉄西区」など、 などメインストリームからはじき出されるような映画が上映されていました。

シネマテークは制作側にとっても、成長の場を提供していました。毎年年末には自主製作映画フェスティバルを催しており、いつも以上に自由な表現の映画を選んで上映していました。さらにフェスティバルの期間中はプログラムが上映された後に夜遅くまで「何でも持って来い!」という企画があり、ここでは審査なしで誰の作品でも持ち込んだ作品は上映されます。この企画から後の映画監督も排出されています。

シネマテークのトイレ

シネマテークのトイレのステッカー

この写真はシネマテークのトイレに貼ってあったステッカーです。このカエルは"フィールズ・グッド・マン“という映画に登場するペペというキャラクターです。

ペペは無気力な若者を象徴するようなキャラクターです。コミックでは、ただ仲間たちとダラダラ過ごす姿が描かれています。小便をして"feels good man?(気持ちいいぜ)“というだけのキャラクターでした。これがネットミームとして人気となり、4chanなどのネット上の様々な場面で使われるようになります。そのまま独り歩きが続き、アメリカのオルタナ右翼のヘイトシンボルとして定着してしまいました。作者の意図と無関係にペペの存在が人種差別の意味を持つようになってしまったのです。作者のマット・フュリーはネット上のこの流れを止めるようと奔走しますが、どうすることもできず、物語の中でペペを死なせることにしました。

フィールズ・グッド・マン
2020 アメリカ
監督: アーサー・ジョーンズ
ただのマンガのキャラクターだったペペがネットミームとして伝搬していく様子を通してアメリカの現状を映したドキュメンタリ

映画にはピーター・ケルというNFT(非代替性トークン)トレーダーが登場します。彼はペペのNFTの売買で成功を収めた人物です。ペペがネットミームとして広がる時期とNFTの勃興したタイミングがかぶったため、希少性が高い初期のNFT作品は価格が高騰したのです。映画の中で、彼はシンプソンズのホーマーとペペを組み合わせたHomer Pepeが特にレアであることを自慢していました。
映画公開後に彼はHomer Pepeを売却します。当時のNFTの取引額の最高値で2021年当時のドル換算で約30万ドル相当の暗号通貨でした 売却についてのピーター・ケルのインスタへの投稿 https://www.instagram.com/p/CL3EjOjFKlb/?hl=en 。つまりHomer Pepeにはシネマテークの数年分の赤字を補填できるほどの価値があると市場に見なされていることになります。ただのパクリでネット上で空虚に持て囃されているだけのHomer Pepeを高額なものと評価してしまう市場は、本当の価値からは切り離された存在といえます。自由市場はシネマテークのような文化を育む存在を許さない一方で、Homer Pepeのような文化の収奪をする存在を許しています。

競争の中で不要なものが淘汰されて残ったものがよいものだという考え方もあるでしょう。それはシネマテークで上映していた映画は一部の人のための"わがまま"な作品であり、そのような"わがまま"を現在の社会は許していないということです。これこそが現在の社会が内面化している思想です。
本書では、次のことを明らかにしたいと思います。ひとつは社会に許されなかったもの、つまり、シネマテークの"わがまま"とは何だったのか、です。もうひとつは、なぜ社会はそれを許さないのかをファシズム政権下の状況になぞらえて説明します。

また本書ではいくつかの映画を参照しますが、事細かに説明しますので、ネタバレも含みます。どうしても文章では伝わらない部分が多々ありますし、たとえネタバレしても魅力を失わない強度のある映画ばかりですので、機会があればぜひ見に行ってください もちろんこれらの映画はシネマテークで上映されました。。

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第 2 章
退廃芸術と「自由からの逃走」

退廃芸術

ヒトラーはナチスの価値観に反する芸術を退廃芸術として弾圧しました。政治的な意図がなくても伝統的なドイツ美術ではなければ退廃的とみなされ、前衛的な芸術はできない状況に追い込まれました。ソビエトのスターリンも社会主義リアリズムを唯一の芸術様式として、それ以外を弾圧しました。日本でも前衛芸術が雑に反政府的であると絡め取られて逮捕される事件 福沢一郎・瀧口修造の拘留https://artscape.jp/artword/index.php/%E7%A6%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E%E3%83%BB%E7%80%A7%E5%8F%A3%E4%BF%AE%E9%80%A0%E3%81%AE%E6%8B%98%E7%95%99 があったりして、芸術界は翼賛的な方向に流れていったそうです。

全体主義と芸術のプロパガンダ化は往々にしてセットになっています。プロパガンダを推し進めること以上に、そこからはみ出るものへの異常な攻撃性も見られます。1937年ヒトラーはミュンヘンにて、ナチスが認めた芸術を集めた「大ドイツ芸術展」とナチスが認めない作品を露悪的に示し、そのような芸術が税金の無駄遣いであったと思わせるための「退廃芸術展」を同時期に開催しました。大ドイツ芸術展の開会式でヒトラーは演説しますが、その力点は明らかに退廃芸術への罵倒であったようです。

選りに選ってわれわれの今日の時代の前に、ひょっとすると1万年前、あるいは2万年前の石器時代人でも作ることができたような作品を提出するのは、温顔無恥でなければ、理解し難い愚鈍である。彼らは芸術の原始性を言いながら、民族の発展から逆行するのが芸術の使命ではなく、この生きいきした発展を象徴化することしかその使命ではありえないことを忘れている。大ドイツ芸術展開会式でのヒトラーの演説より抜粋

この侮蔑的な価値観はヒトラーの個人的なものにとどまらず、それなりの数の市民と共有していた考えのようです。実際に、大ドイツ芸術展よりも退廃芸術展の方が人気だったようで、普段美術館に行かない市民が大量に押しかけ、退廃芸術展は大混雑で、やはり作品には憎悪がぶつけられていたそうです 河出書房新社 関楠生 著「ヒトラーと退廃芸術〈退廃芸術展〉と〈大ドイツ芸術展〉」参照。ヒトラーにしても、彼に追従していった市民にしても、この執拗な排斥の感情はどのように作られていったのでしょうか?

自由からの逃走

自由からの逃走
1941年(原著)
エーリッヒ・フロム(著) 日高六郎(訳)
東京創元社
社会心理学の立場から未開社会から中世、現代と変遷する中での自由を分析した本。日本では1951年に出版されて以来増刷を重ね百刷を超えている

1941年に出版されたエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」はナチズム・全体主義に傾倒していく市民の心理を分析した古典の名著として知られています。フロムはこう主張します: 近代化によって人々は自由を獲得したものの、その自由から逃走している、と。

フロムはこれまでの歴史の中で人類がどのように自由を獲得してきたかということを起点に考えます。人類は、火の発見、道具の開発、農業などの文明の発展とともに、衣食住のコントロールが可能となり、より自由な生活ができるようになりました。これは自然による束縛からの自由を獲得したと言うことができます。さらに文明は進み、職業や宗教の選択の自由、参政権、自由市場などが確立していき、これまで束縛していたものが次々と取り払われていきます。こうして現代に近づくほど、個人というものの輪郭がはっきりと強調され、個人として様々な生き方を選択できるようになりました。

このように拡大してきた自由は、個が強大な外界と向き合うことを要求します。自由が拡大されるほど、それに対する自己の判断に対する責任の重圧を生みます。自由市場では何がどの程度売れるかは予測できず、不安を生みます。個人同士の間に競争が発生し、連帯を失えば孤独を生みます。強大な社会に対し自身のちっぽけさが無力感を生みます。結局、自由を獲得しても、不安や孤独から解放されようとして、逆に何かに従属してしまうことがあります。 これをフロムは「自由からの逃走」と表現しました。自然や社会制度上の束縛からの解放は親からの自立のメタファで表現されています。いつまでも自立できない人は、また安心できる親への従属を求めてしまうのです。しかし文明を手放さない人類に元の安心できる親はすでに存在せず、いびつな従属先を捏造してしまいます。

自由から逃走し、何かに従属して安寧を得たいという欲望は全体主義に繋がります。従属への欲望がエスカレートすると、敵と定められたものに過剰な攻撃をすることで仲間との一体感を得ると共に、自分が強いものだと実感することで安心しようとします。退廃芸術への攻撃性はこのような心理で説明されます。攻撃性を伴わないとしても、機械のように振る舞うことで感情をごまかし、周りと同じように振る舞うことで従属感を得るケースもあります。いずれの場合でも、本人の自発性とは別の力に支配されており、自己が喪失している状態といえます。

全体主義

wikipediaによると全体主義の定義は以下になります。

全体主義とは、個人の自由や社会集団の自律性を認めず、個人の権利や利益を国家全体の利害と一致するように統制を行う思想または政治体制である。対義語は個人主義である。wikipediaより

全体主義の対義語は個人主義という定義に対し、フロムの個人化から全体主義に向かう傾向をみる主張は矛盾を感じるかもしれません。しかし、よく考えてみると、全体主義は個人が確立していないと成り立ちません。中世の封建社会は現在のような自由はありませんが、それを全体主義とはいいません。個人があって、自由があるべき社会にも関わらず、その自由が一方向に向いていて、それ以外が許されない状態が全体主義と言えます。

全体主義的(左)と非全体主義的(右)の状態のイメージ

個人がバラバラになっているほど、全体に従わせる力によって一様にまとまりやすくなります。その意味で個人化が進むと全体化へ傾倒しやすい状態になります。孤立して分散した力は全体化の力に絡め取られてしまうのです。全体主義に抗えうる状態とは、個人の自由が発揮されることで各自がそれぞれの向きを持ち、ムラのある連帯ができている状態です。
全体主義といっても単純に社会が一様となっているわけでなく、人によってグラデーションがあります。同じ景観、同じ価値観を共有し、同じ向きに揃っている人が集まるほど同調の磁場が強くなり、同じであることが集団の安寧をもたらします。その中でも、先鋭化した集団はそこに属していることを過度に称賛しあって、より一体感を求めるようになり、逆に属していない人を異物とみなし排除する欲求を強く持つことになります。このように強権的な体制が存在しなくても、集団の同調圧力によって全体主義は成立します。権威は具体的な体制だけでなく、義務や良心のように内面化された権威や世論のような匿名の権威もあることをフロムは示しています。

「積極的」自由

消極的自由(…からの自由)と積極的自由(…への自由)

文明が自由からの逃走に繋がりうるとはいえ、フロムは文明を批判しているわけではありません。フロムは自由を二種類に分類しています。ここまでに説明した文明や社会制度によって手に入れた「…からの自由」のことを消極的自由と呼んでいます。
もう一つは積極的自由、つまり「…への自由」です。積極的自由は自発的な活動によって自己実現するものであり、外界の中で自立して生きていく力です。つまり消極的自由を積極的自由に転換することで、自己を確立した安定した生を獲得できるということがフロムの主張です。

1966年、ビートルズはライブはやめることにしました。歓声が大きすぎて誰も聴いていないライブに虚しさを感じたためです。彼らはスタジオに籠もり、スタジオだからできる技術を積極的に取り入れた結果、アルバム"Revolver"を完成させて、その後の音楽の可能性を広げました。キャーキャー言われて承認欲求を満たしているだけなら、社会に迎合しているだけであり自己の喪失といえます。自身の求める音楽の追求こそが積極的自由であり、自己の確立です。ビートルズのような偉大なことはできないと思うかもしれませんが、この例で重要なのは社会的な成果の大きさではなく、個人の生き方が社会の同調に惑わされることなく、自発性を持っているか、ということです。

ビートルズを例に出したのは積極的な自由は傍若無人な自分勝手とは違うことを説明するためです。むしろ他者や先人への敬意を多く含むほど価値のあるものです。人類の歴史はそのような敬意の積み重ねによって叡智を育んできました。
前章で紹介したNFTアートの「Homer Pepe」には敬意がありません。一方的な収奪とともに叡智の蓄積から切り離された存在です。それはただの記号であり、記号でしか価値を判断できない人々による盲信の対象でしかありません。Homer Pepeが高額で取引された事実は、中身のない記号に従属する人々の勢力がどれほどに肥大化しているかの表れとみることができます。 Pepe乱用の流れに対抗して、作者のマット・フュリーが作ったNFTアートもあり、それらも数千万円で取引されています。こちらは歴史から切り離されたとは言えないですが、極右への対抗のための記号としての評価であると思います。ここで問題としているのは実体と切り離された記号だけを評価する市場、およびそのような市場を支える人々のあり方です。現在の市場について単純に語ることはできませんが、美術品の市場のあり方を問う作品として、「アートのお値段」(2018年アメリカ)という映画が参考になります。もちろんシネマテークでも上映されました。

にせの自我とは本質的に思考や感情の外部的な型を受容したものにすぎない。有機的な成長は自分自身についてと同じく、他人の自我の特殊性にたいして、最高の尊敬を払う場合においてのみ可能である。自我の独自性に対するこの尊敬とその育成は、人間文化のもっとも価値ある成果である。そして現在危機にさらされているのは、まさにこの成果なのである「自由からの逃走」 第七章 自由とデモクラシー

現在の空虚な価値基準は1941年出版の時点でフロムが危惧していたものです。しばしば格差によって平等に自由が享受できないことが社会問題として挙げられます。それはもちろん是正されるべき問題です。しかし、歴史と切り離された自分勝手な存在によって、文化や叡智が毀損されていることも意識されるべき重大な問題です。

自分勝手な世界観と現実の乖離の表出として、アメリカ極右の白人至上主義者による2021年の議会襲撃事件は象徴的です。大統領選挙に不正があったと信じる人たち1000人以上がこの襲撃に参加し、2023年9月現在で400名以上の逮捕者が出ました。この逮捕者 Criminal proceedings in the January 6 United States Capitol attack には企業のCEOも含まれており、その謝罪のニュースも報道されています。2021年5月時点のシカゴ大学の研究チームによる逮捕者の分析 THE FACE OF AMERICAN INSURRECTION によると、17%がビジネスオーナー、30%がホワイトカラー、ようするにそれなりに裕福な人たちだそうです。
白人至上主義者は自己を失っています。自分の中での軸がなく立脚するものがない不安から、「白人」というラベルへ自己を埋没させて、侮蔑的と定めた記号への攻撃により相対的に自分が上だと思い込もうとします。他者への敬意を失って歴史と切り離された存在はふわふわと宙ぶらりんな状態で、都合のいい方向に簡単に流されてしまいます。世の中にはお金があれば解決する問題も多々ありますが、たとえお金があって消極的自由を存分に享受できる立場であったとしても、自己を失った人たちの不安は耐え難いもので、都合の良いウソの社会に従属しようと必死なのです。

言葉とウソ

「預言者ピッピ」と「魔女」

地下沢中也著の「預言者ピッピ」というマンガでは突然言葉を話せるようになったチンパンジーのエリザベスが登場します。自らを猿の知能しかないと語るエリザベスは言葉について、このように言います。

「言葉で説明しようとすればするほどどうしてもなにかが違っていく。やっぱりわたし言葉はあまり好きじゃないわ」
「言葉は口から出たとたんにわたしの心を離れて勝手に嘘になるから嫌い」
「悪に名前なんかないでしょう。あるとすれば嘘つき!それか詐欺師よ!」「預言者ピッピ」2巻

また五十嵐大介著の「魔女」というマンガの「PETRA GENITALIX」という話では次のようなセリフがあります。

「“体験”と”言葉”は同じ量ずつないと、心のバランスがとれないのよ」
「いちども空を見たことがない人が『晴れた空は青い』と言ったら、言葉は間違ってなくても、それはウソなんだわ」「魔女」PETRA GENITALIX

まだ言葉がなかった頃の世界を想像してみましょう。誰かに何かを伝えたい時に、ジャスチャーに加えて「アー」とか「オゥ」とか、その人なりの表現でその何かを伝えようとしたはずです。その表現を受け取った側も、状況と表現を照らし合わせて、表現が表す何かを想像します。繰り返すうちに、表現が指す何かが分かる気がしてきて、また表現した側も何かが伝わっている気がしてきます。定着した表現はそれを作った人の死後も残り、仲間や子孫に引き継がれます。表現はますます複雑になっていきますが、赤ちゃんは驚異的な速さで表現方法を体得し、子供も大人も自発性をもって新たな表現を広げていきます。表現の広がりは個々人から見える世界の認識も拡張していきます。表現は文字、絵、音楽の形式をとることで、芸術や学問をなすようになり、慣習や規律が共有されることで社会が構築されていきます。これらの表現すべてが人類の叡智です。
言葉が複雑になって、より精緻に表現できるようになり、社会が言葉を礎に構成されるようになると、あまりにも言葉の上に構成されていることが多すぎて、言葉とその言葉が指し表している何かがしばしば乖離します。もともとは何かがあって、それを曖昧に表現した言葉があるだけだったのに、言葉でなんでも表現できる気になってくると、何かの存在がないがしろにされがちです。自分の発した言葉でも実際は他人の言葉を持ってきていただけで、よくよく考えると、その言葉が指す何かが全然別物だったりします。社会的に当たり前に存在している言葉が個人の中できちんと何かと接続しておらず、宙ぶらりんになっていることに気づかないこともあります。自分の中の見たくない何かを直視せず、それを誤魔化せる言葉を作って必死にしがみつくことも人の性と言えるでしょう。この乖離や不在が私の言うウソです。何かの実在を強く確信していることが自己の確立であり、何かを失ってウソの言葉しか吐けないことが自己の喪失です。

人類の叡智全体をひとつの生命体であると考えてみることもできます。私たちの意識ひとつひとつがその生命体の細胞であり、様々な媒体を通じたコミュニケーションによって細胞と細胞の間の繋がりを強化して成長します。今この文章を読むことであなたの脳に刺激を与えているならば、それも叡智という生命体を蠢かしています。これまでの人類の歴史の中で創造してきた膨大な何かがこの生命体の中にありますこの節の考えはマイケル・トマセロらを中心とした言語獲得の議論にインスパイアされています。モーテン・H・クリスチャンセンとニック・チェイターが著した「言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―」(新潮社)には「言語という生命」という節があります。。
歴史から切り離されたウソの価値観に支配されて全体主義的な均質化に陥った果てに文化を毀損する人々は、叡智にとって腫瘍とでも呼ばれるべきものです。ここまではHomer Pepeのような記号に価値をみる人々やトランプの落選を受け入れられない人々など、分かりやすさから際立った例をあげました。しかし現在、腫瘍は社会に広く蔓延しており、叡智はひどい病を患っているように感じます。
次章では、この腫瘍がどれほど広がっているか、つまり、私たちの社会がどれほど全体主義に陥っているのかを説明します。

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第 3 章
ウソの社会

惑星プリュクの価値観

不思議惑星キン・ザ・ザ
1986 ソビエト連邦
監督: ゲオルギー・ダネリヤ
ソ連では1500万人以上の観客の動員を記録したSFコメディ。ほのぼのした世界感の下には、ソ連の検閲をくぐり抜けた社会風刺が込められている。

映画「不思議惑星キン・ザ・ザ」はうっかりヘンテコな惑星にワープしてしまい、価値観や慣習の違いに困惑しながら、地球への帰還を目指す物語です。

ワープした先はキン・ザ・ザ星雲の惑星プリュクでした。そこではステテコの色で階級が決まり、偉い人は傲慢な振る舞いをします。身分の低いものは変なポーズでクーと挨拶しなくてはなりません。さらにパッツ人はチャトル人より格下であることが決まっており、パッツ人とジャッジされた主人公たちは鼻の下に鈴を着けなくてはいけません。この惑星の人は利他の気持ちはなく(特にチャトル人)、不要な人を切り捨てることに躊躇をしません(役立たずを宇宙船から捨てたと平然と言います)。
彼らは合理性だけで動きます。その合理性も「より高い階級のステテコを履く」という目標に基づいています。地球では身分が分かる印がないことを知ると「未開人め」と言い捨て、上下の区別もつかないところで何を目標に生きればいいか分からないとも言っています。なにが価値があるのかを社会に決めてもらわないとわからないようです。

主人公がクーをしないので殺されそうになるシーン。後ろでクーをしろとジェスチャーするパッツ人とさりげにそれを抑止するチャトル人

理解に苦しむ理不尽な価値観でこの惑星の人たちには自己がなく、まるで社会にインストールされたプログラムに従って生きているように感じるのではないでしょうか。しかし、それは外からの目線で見ているからです。客観的には不毛な価値観でも、それが当たり前の社会で生きていたら、それを受け入れて生きてしまうものです。社会の内部からその社会の当たり前を疑って、社会を客観的に見ることは難しいことです。自分の意思で決定したと思っていることも、実のところ社会から植え付けられた価値観に従っているだけで、自発的な行為とは限らないのです。

主人公は惑星プリュクの人たちに何度も裏切られながらも、彼らがピンチになると自らリスクを負って彼らの命を救います。チャトル人には最後まで彼の利他的な行動が理解できず、何が目的なのか、問いただすシーンもあります。我々地球人がこの主人公のように立派な行動ができるかはさておき、助けてあげたい心理は理解できます。この地球人の利他的な行動は、ただ地球の社会で植え付けられた価値観に従っているだけなのでしょうか?自発的な行為とは言えないのでしょうか?私は彼は自発的に助けようと判断したと主張します。その自発性は人類の叡智から生まれたと考えます。「人を助けることが素晴らしい」という社会通念は歴史と接続された強度のある真実です。それを引き継ぐことで自己を保ち、損得を超えた非合理的な行動をして、ヘンテコな惑星でも生き抜くことができたのです。空虚なウソの社会に横たわる理不尽な慣習への同調とは違います。

なぜかやけに表情豊かで踊りも踊るパッツ人。結局この人にも裏切られる…

惑星プリュクは砂漠だらけですが、宇宙船を個人で持てるくらい文明が進んでいます。かつては海もあったらしく、行き過ぎた文明の末路の星のようです。ステテコ競争だけに夢中で、利他的な気持ちもなければ、環境破壊を止める方向に向かわないことも必然と思えます。合理主義の彼らの表情は固く、笑顔は偉い人にへつらうためにあります。そのような世界で一人だけ表情豊かな女性が登場します。彼女は謎の道具を口に入れ、ブーブー鳴らしながら一頻り踊った後、こう言います。

「この星で真実なんて無意味よ」

自発的な感情を有している彼女は、惑星プリュクはくだらない社会通念が支配しているウソの社会であることをよく理解しているようです。

地球の価値観

再度フロムの「自由からの逃走」から抜粋します。

かれらは自分の本当の願望を知っているという前提を疑問に考えることはない。かれらは自分の追求している目標が、彼ら自身欲しているものであるかどうかということを考えない。かれらは学校では良い成績をとろうとし、大人になってからは、より多くの成功、より多くの金、より多くの特権、よりよき自動車を求め、あちらこちらに旅行し、・・・などしようとしている。「自由からの逃走」 第七章 自由とデモクラシー

むかしの商人の商いは本質的に合理的であった。彼は自分の商品をよく知っており、買い手ののぞみもよく知っていて、その知識にもとづいて売ろうとした。たしかにかれのしゃべることは完全には客観的ではなく、できるだけの勧誘もしたであろう。しかもなお、効果をあげるためにはむしろ合理的な、物の分かった話し方でなければならなかった。巨大な近代広告はこれと異なっている。それは理性にではなく感情に訴える。催眠術の暗示のように、その目的物をまず感情的に印象づけ、それから知的に説明する。このような広告方法はあらゆる手段で買い手に印象づけようとする。すなわち同じことを何度もくりかえしたり、社交界の婦人や有名な拳闘家に、ある商標の煙草をくわえさせて、権威あるイメージを起こさせようとしたり、美しい少女の性的な刺激によって買い手をひきつけ、同時にかれの批判力を麻痺させようとしたり、「体臭」や「口臭」などをとりあげて、恐怖心を起こさせたり、さらにあるシャツや石鹸をかうことで、なにか全生涯が突然に変化するような空想を刺激したりしている。これらすべての方法は本質的に非合理的である。それらは商品の性質には関係なく、阿片や完全な催眠術のように、買手の批判力を窒息させ殺している。「自由からの逃走」 第4章 近代人における自由の二面性

惑星プリュクの人たちから見たら、地球人は理解し難い価値観を持っていると感じることでしょう。このような作られた価値観に現代社会は支配されており、自己顕示欲や不安への刺激は増加を続けてます。それに応えるような商品やサービスによって必要以上に消費が煽られている現在の社会は「消費社会」と名付けられ、批判されています。作られた欲望を満たすための競争が経済を強力に回している一方で、基本的な生活に困窮する弱者を生み、環境破壊も進んでいます。

2つ目の引用に注目すると、ここで使われている"合理的"はどういう意味でしょうか?普通は社会的なスタンダードに合わせる/合わせさせることで利得を最大化することを“合理的"と感じ、ややこしい個々の違いにわざわざ付き合う方が"非合理的"と感じるのではないでしょうか。何が合理的であるかはその時代のその社会の価値観に依存します。現在の"合理性"は暗黙に経済合理性を指しており、それは"本質的な合理性"からずれていることを指摘しています。いかに私達の内面に市場原理の価値観が入り込んでいるかがわかります “合理性"という言葉の多義性は社会学者のマックス・ヴェーバーにより指摘されたものであり、ここでのフロムの言葉選びはそれを意識したものであると思われます。。

テレビの普及は消費社会の形成に大きく寄与しました。マスコミは視聴率を通して大衆の需要を理解し、みんなが望むものを提供するように努めています。結果として、マスコミと大衆は写し鏡の関係になっています。報道されるニュースのくだらなさは大衆が自己を失っていることのバロメーターです。
芸能ニュースは従属を欲する人たちに応える典型例です。芸能人の私生活の報道によって、空虚な自身の人生を他人の人生で埋め合わせをして、いいことがあればみんなと一緒に喜び、不祥事があればみんなで批難することで、一体感を得たいという需要に応えます。

また、藤井聡太さんの対局があると、その日のニュースで何歳、何勝、何冠という分かりやすい数字に加えて、対局中に何を食べたかまでも報道されます。それは情報としては正しいでしょうが、藤井聡太の本質的な部分とはあまりにもかけ離れた情報であり、その意味でウソの報道と言えます。視聴率を最大化するための正解は、全体の向いている方向を読み取って、その方向に迎合することです。結果として、限られた時間の中で国民が共有すべき情報として、大衆と藤井聡太の公約数である勝負メシが選択され、みんなの一体感のためのコンテンツとして消費されています。
もう少し身のあることを報道しようとしても、勝負メシ以上にお手軽でしかも数字を取れるコンテンツは難しいでしょう。ウソがスタンダードになってしまうと、本物に向かおうとしてもウソに引き戻そうとする力が発生します。それは同調圧力であったり、経済合理性などの形で現れます。

ウソのお買い物

お店に入ると笑顔でいらっしゃいませと言われます。お客"様"は主人としてその丁寧な扱いを確認すると満たされた気持ちになります。万が一、愛想のない店員がいたならば、それは秩序を乱す存在であり、市民の敵です。戒めなければなりません。責任者に文句を言うなり、ネットに書き込みをするなりして制裁をします。そして自分は秩序の側にいることを実感し、その従属感に安寧を得るとともに、主人の立場の締めくくりとしてテレビでよく見る料理人が監修したスイーツの贅沢を明日のお客"様"への服従のための気力に転換し、さらなる従属感の高みを目指すのです。

ネットで買い物をすれば、人と接する必要もありません。クリックひとつで世界のどこかで作られた商品を誰かが届けてくれます。その商品を作るための材料も世界のどこかから集められたものです。この広大なネットワークを形成する人々のことをどれほど意識することができるでしょうか?そこにどれほどの利他の心はありますか?惑星プリュクの人たち(利他の気持ちはなく不要な人を切り捨てることに躊躇をしない)とどれほど違うのでしょうか?

他者を思いやる倫理の欠如は過酷な条件での労働や違法な資源開発、安全性の軽視などを誘引します。グローバル経済はそのような不正の隠れ蓑として機能しています。もし倫理的に商売をしようとするとハンディキャップを背負って競争をすることになります。つまり競争に勝つには、隠れ蓑を活用してバレないギリギリのラインで非倫理的な商売ができるかが肝になります。私たちの日常の生活で購入される商品が流通する度に、広大で複雑なサプライチェーンの節々に差し込まれている不正義が換金されて、資本家の富が集積されます。ひとつひとつは取るに足らない不正義でも、広大なグローバル経済によって集約された結果、個人では到底抗うことのできない暴力が発生します。不正を見えなくすることで自身の倫理感を汚すことなく合理的な買い物ができます。不正が発覚したとしても巨大なシステムの中の一部の悪人の仕業で済ませて、自身は善良な市民であると引き続き思い続けることができます。グローバル経済の隠れ蓑の下の悲惨な現状を伝えるドキュメンタリ映画 「ゴースト・フリート 知られざるシーフード産業の闇」(2018年アメリカ)、「グリーン・ライ エコの嘘」(2018年オーストリア)、「フード・インク」(2008年アメリカ)、「ありあまるごちそう」(2005年オーストリア)、「おいしいコーヒーの真実」(2006年イギリス、アメリカ) など はしばしばシネマテークのようなミニシアターで上映されています。

ウソのお仕事

ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか
2021
酒井隆史
講談社
デイビッド・グレーバーの著書「Bullshit jobs」の訳者による解説本。

2018年に出版された文化人類学者デイビッド・グレーバーの著書「Bullshit jobs」は世界中で大ヒットし、日本でもブルシットジョブ(BSJ)という言葉をしばしば耳にするようになりました。英語圏ではshit(クソ)という単語はよく聞きますが、bullshitというと、それよりずっと強いお行儀の悪い言葉です。訳者の酒井隆史さんによると、bullshitは「不必要」という意味に加えて「欺瞞」のニュアンスが強い言葉だそうです。グレーバーによるBSJの定義は次のとおりです。

BSJとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、被雇用者は、そうではないととりつくろわねばらないと感じている。

エッセンシャルな仕事をしている人にはそんな仕事があるのかと想像しがたいかもしれませんが、グレーバーの本には無意味な会議のために海外出張を入れるなど、さまざまなBSJの証言が集められています。しかもBSJをしている人の方が給料がよいのです。エッセンシャルワーカーが生活を削って仕事量を増やしたり、工夫を凝らして業務を改善したりして、多少収入が増えたとしても、BSJの収入には届きません。

私もIT業界一年目に非常に真面目にBSJに勤しむ人々を目の当たりにして驚きました(当時はBSJなんて言葉はなかったですが…)。プロジェクトの終盤に配属されてすぐ、すでに修正されたプログラムの修正申請書を書く仕事を任されたことがあります。本来はこのドキュメントから修正する意図や影響範囲などを確認してからコードを反映するのですが、形式上必要なだけのドキュメントの作成は後回しになっていました。適当にでっちあげたところ、2つのドキュメントの間に不整合があることをPMO Project Management Officerの略。大規模案件ではプロジェクトのマネージメントをするためのチームが組織されます。に指摘されました。それはすぐに分かるような矛盾ではなく、きちんと中身を読んで、頭の中で再構成して考えないと気づきません。PMOの人たちは有名大学出身の社会的に優秀な人の集まりで実際に頭の回転も早く、彼らの高い能力をこんな無意味なことに使える精神力に感嘆しました。このプロジェクトは数十人のメンバーがビルのワンフロアに集められていました。それぞれのチームで残業自慢や徹夜自慢しあっており、もちろんPMOはその先頭を走っていました。
このプロジェクトのメンバーは立場が偉くなるほどプログラミングに関する知識はなくなる傾向がありました。一方でドキュメントの整合性矛盾だけでなく、誤字やフォントなどの体裁を指摘することに余念なく、それを忠実に完遂する精神性を持っています。プロジェクトを進めるには誰かがプログラミングをしなくてはなりませんが、やらなくてはならないことをやる人には責任が伴います。このプロジェクトにおける仕事を単純化すると、いかに責任を押し付ける側に立てるかを競うゲームなのです。そういうゲームだと思えばそれなりに楽しめる程度のゲーム性はありますが、人生の多くの時間を割くほどの面白さはありません。
このゲームの強者が出世すると、ルールをコントロールする権力を持ち、なお一層のBSJが醸成されることになります。また、押し付けられた責任を果たすことができなかった人の評価は下がりますが、責任を果たしてもBSJができることほどは評価されません そもそもこの責任を果たすことは不可能です。無知な営業がウソを撒き散らして風呂敷を広げて獲得した案件だからです。普通にやればできることが、営業が売りつけた製品が足枷になって不可能になりました。なので、ここでの責任とは現実的に可能な範囲に風呂敷をうまく折りたたみ、お客様に納得してもらうこととそれを実現する責任になります。それでも、このプロジェクトは成功例としてその製品のホームページに掲載されました。このプロジェクトのお客さんはコンプライアンスに関する社会問題を引き起こしており、このプロジェクトによって、その問題が解消されたことにしなけらばならなかったからです。。必要なことをできる能力を正当に評価することはBSJしか能のない自分を直視することになるからです。自身の立場を守るためにはBSJが重要であるとウソをつき続けなくてはなりません。このとき本人にウソを言っている自覚はありません。社会から提示された常識的なルートに真面目に従ってその優秀さを発揮して生きてきたのに、それがウソであるはずがないと考えます。ウソに無理が生じてくると攻撃的になることもあります。ウソを直視させることは、その人の信じてきた人生の否定になるからです。ウソの社会にとって、本物は敵なのです。

弾圧

本書の冒頭で述べたとおり、私はシネマテークの閉館は自由市場の上のファシズムによる弾圧であると考えています。もちろん第二次世界大戦中のように警察が動くわけではありませんし、シネマテークの閉館に加担したと思っている人は存在しません。経済的暴力は「見えざる手」が遂行します。見えざる手の動く原理自体には善も悪もありません。しかし、ウソに支配された人々による不当な敵意の心理が結集したならば、見えざる手は弾圧と呼ばれるべき力となり、人類の積み重ねてきた叡智を毀損します。
ウソの社会に従属している人たちにとって、真実や本物は直視しがたい存在であり、ウソの社会への従属によって均質化した集団の比率が高まるほど叡智への攻撃は激しくなります。ウソが蔓延している現在の社会においては、叡智の蓄積の存続はそれを大切に思う人々の経済的に非合理的な活動によって支えられています。シネマテークはそのような活動をする映画館の一つであり、ウソの社会にとって敵と言える本物の映画を上映し続けました。

典型的な弾圧として、全体主義の方向にそぐわない真実を伝えることの禁止があげられます。次章では、シネマテークで上映されていた映画がウソの社会の安寧を乱すような真実を描いている例を紹介します。

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第 4 章
ウソの社会が追い込む人々

この章ではシネマテークで上映された2本のドキュメンタリ映画を紹介します。ドキュメンタリは事実を撮影したものであったとしても、何を撮ろうとしたのかという選択と撮ったものをどのように見せるのかという監督の意図が入ります。なので、例えば「Aさんは〇〇です」という文は「監督の見せようとしているAさんの表現から私が解釈したAさんは〇〇であると思った」という意味になります。この章は特に主観的な見解が強めになっていることを理解した上で読み進めてください。

オウムの社会とその外側

大きな影響力を持った勢力が、「これが正しい!」と言ったら、それを疑い、検証するような、そして自分自身の思考も問い直されるような映画をやっていくこと。そこにミニシアターの意義がある。「小さな映画館から」 『A』から『FAKE』へ 〜森達也の帰還〜

「小さな映画館から」で平野さんがこのように語っています。1998年公開の森達也監督の「A」を見て、この思いがはっきりしたそうです。

A
1998 日本
監督: 森達也
オウム真理教の内部に入り込み、荒木浩広報副部長を中心に信者たちの様子と信者たちから見える外の社会を撮影したドキュメンタリ

「A」はサリン事件後のオウムの内側に潜入して撮影した作品です。この映画では事務所の中で尊師の念仏とか歌が流れていることや変な器具を着けて修行している様子も含めて、どのメディアよりも生々しく信者の様子を映し出しています。当時のメディアはオウムの信者はマインドコントロールされていて、まともな判断力も感情もないということになっていました。この映画を見ると、それまで報道されていたイメージとはギャップを感じます。それぞれしっかりと人格があり、みんなでテレビを見ながら、自分たちの報道のされ方を談笑したりしています。特にオウムの広報である荒木さんはお人好しさと節々に見られる人間的なゆらぎが興味を引く人物で、映画も荒木さんを中心に進みます。
信者の話で、特にはっきり理解できるのは私たちの社会への批判です。彼らは世俗としっかり向き合っており、世間はウソの社会であることをよく理解しています。それが分かっているからこそ、世俗を捨ててオウムに入信したのです。
一方で彼らのオウムへの信心はよく理解できません。理解できないので、私の主観に偏ったことしか言えませんが、やはり彼らの信心の語りは現実と向き合わないための方便というのが率直な印象です。何か不条理があっても、すべて修行で片付けてしまいますし、食欲や性欲をなくす修行は自己を消すことで安寧を求めているように感じました。世俗も自己も放棄して宿罪から逃れたいだけならば、人類の歴史との接続の否定であると私は考えます。

「A」はオウムから見た外側の世界として、マスコミ、警察、そして世間を映しています。森監督の映画や著作はメディアおよび世間の思考停止がしばしば取り扱われます。

マスコミは信者を「犯罪集団のオウム」という記号でしか捉えず、記号の先にある個人と向き合うことはありません。個人に対する礼節もなく、視聴者の望む像を撮って視聴率を稼ぐことだけに執着しています。荒木さんは隠し撮りやだまし討などのマスコミの酷さに辟易しながら、正当に取材してくれと要求します。マスコミは抗議書にも回答しないし、荒木さんからマスコミへ電話しても会議中と言って取り次いでもらえません。にもかかわらず、マスコミは自分勝手に屁理屈をこねて取材をしようとします。屁理屈に対して揉める中で、荒木さんに「常識的にそうでしょ」との指摘に反論できず、気まずさをごまかすような一笑の後、それでもまだ取材をしようと要求を続けます。彼らは「市民を代表している正義のマスコミ」という記号をまとい、それに対する「市民の敵」としてのオウムという図式がインストールされていて、それ以上のことは考えられないようです。
NHKは常識的な作法で許可を取ったのか、一般信者のインタビューをすることができたようで、その様子も映画に撮られています。信者は冷静に応えているのに、期待するストーリーの回答が得られないのか、インタビュアーはしどろもどろになっていました。インタビューが成立してないと判断されて中断した後に、信者は「これ放送されたらマヌケだろうな」とつぶやいています。中断後もインタビュアーはどうにか報道できるストーリに乗せようとして、誤解なく伝えることはできないかと尋ねますが、「誤解は聞く側がすることですから」と答えます。社会から与えられた図式を超えたことを世間は考えられないことをこの信者は理解しています。
「A」の3年後の様子を撮った「A2」では、地域に住むオウムの家を監視していた近隣住民がすっかり仲良くなっている場面が映されています。フジテレビのカメラもその場面にいるのですが、このような仲の良い場面が放送されることはないそうです。実際に放送されたとしたら、反感を買うだけでしょう。森監督が著した「「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔」には、森監督が撮ったオウムの映像を放送することを世間の反感を怖れて禁忌するマスコミの様子が具体的に書かれています。

マスコミからはオウムは悪であり市民の敵であるというストーリーが流れ、市民はそれに従って、オウムが引っ越しをする度に排斥運動を始めます。オウムを訴えた住民が裁判所へ提出した書類には、「バカ集団」、「こいつら」、「人の顔しているだけで人間ではない」、「こんな殺人集団に、人権どうのこうのと言うのは論外で人権を与える必要はない」などの言葉で記述されており、排斥的な感情が顕になっています。

警察の転び公妨警察官がわざと転んで無実の人を公務執行妨害で逮捕すること。 も撮影されています。法治国家の規範を逸脱した行為ですが、この警官はカメラに写っていることをはっきりと認識した上での行動です。悪のオウムを捕まえるための正義の行動と言わんばかりに堂々としたものです。それが当時の公安の醸成されていた空気なのでしょう。この警官は彼の社会の常識に従って行動をしていただけと思いますが、それがルールを逸脱することがあります 映画の中での転び公妨によって逮捕された人は、森監督が録画したテープが証拠となって起訴される前に釈放されました。逆にこの警官に対して公訴をしていますが、この警官も無罪となったようです。。警察のような暴力装置https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E8%A3%85%E7%BD%AE]は、国家が独占している暴力を主権者である国民から委譲されているという体になっているので、彼らの勝手なモラルで仕事をされては困ります。

この映画は1999年のベルリン国際映画祭でも上映されています。そこでの質疑応答でこう言われたらしいです。

「オウムの信者はもちろん、この作品に登場するメディアも、警察も、一般の市民も皆、リアルな存在にはどうしても見えない。まるであらかじめ台本を渡されてロールプレイングをやっているとしか私には思えない。これが本当に実在する人たちなら、日本という国はそうとうに奇妙だと思う。要するにフェイクな国だ」森達也『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』 エピローグ

ドイツから日本をみれば、客観的に社会のヘンテコさが見えるのでしょう。森監督はドイツの社会も同じようなものだろうと回答したら、そんなはずはないという反発を受けたそうです。
海外での反響の大きさに反して、日本での「A」の公開当時の集客はいまいちだったそうです。これまで他のマスメディアが撮影できなかったオウムの実態を捉えた多くの映像は集客につながりませんでした。日本人が求めていたのは、オウムという共通の敵に憎悪を向けて、一体感を得るための装置であって、自分たちがウソに支配されていることを突き付けられることは望んでいないのでしょう。
この節の冒頭の平野さんのコメントは伝わったでしょうか?これが社会に許されないシネマテークの"わがまま"です。

周縁とその内側の社会

アメリカの議会襲撃事件の少し後、日本でもウソの社会と現実の乖離が表出した事件がありました。愛知県知事のリコール署名偽装事件です。アメリカの議会襲撃と比べるとインパクトが弱いですし、結局、河村市長も再選し、なあなあで終わってしまいました。
この事件の7年前、シネマテークで東海テレビドキュメンタリ「ホームレス理事長」が上映されました。この映画の中心人物、ホームレス理事長こと山田豪さんは、後に日本維新の会の公認で市議会議員に当選し、さらにその後、リコール団体の副事務局長として署名偽装に加担し、逮捕されることになります「法の裁きを受けたい…」リコール団体幹部の元市議 偽造への関与認め謝罪「事務局長すごいパワーだった」https://www.tokai-tv.com/tokainews/article_20210521_173402。

ホームレス理事長
2014 日本
監督: 圡方宏史
NPOルーキーズの理事長、そこで学ぶ生徒たち、そこで働く職員の様子を収めたドキュメンタリ

山田さんはNPO法人ルーキーズの理事長です。定款には次の目的が記載されています。

この法人は、高校野球部を退部し更に高校を退学した者に対して、野球に関連する事業を通じて、再チャレンジ教育の環境をつくり、努力する事が報われる社会を創造し、明るく豊かで希望を見出せる社会の実現に寄与することを目的とする。内閣府NPO法人ポータルサイトhttps://www.npo-homepage.go.jp/npoportal/detail/023001898より

ようするにルーキーズは落ちこぼれ野球少年のために野球ができる環境を提供し、「野球で更生する」ことを目的とした学校です ルーキーズという名前は森田まさのり著のマンガ「ROOKIES」にあやかっています。不良ばかりの野球部を再建する物語です。この物語を現実で実現しようとしたわけです。。率直に言って、前のめりで来るような人はおらず、居場所のない若者たちが消極的に入ってしまう「社会の周縁」と言える場所です。生徒は思うように集まらず、経営が厳しく存続が危ういというところから映画がスタートします 一度見た時の記憶だけで書いているため、ディテールは正確でないところもあるかもしれません。私は見た映画の内容をあまり覚えていないタイプなのですが、この映画は衝撃的でその後も何度も反芻したので記憶に残っています。。

映画の最初から最後まで山田さんがやることは金策(スナックに飛び込み営業して寄付を求めたり、闇金に借りたりなど)と、あとは自分の生活を削ること(タイトルの通り最終的にホームレスになります)、それだけです。職員の会議にも参加せず、現状の問題点や改善策を考えている様子もなく、何らかの気づきによって事態が好転することもありません。
社会的規範に則って言えば、生徒や職員に対してNPOの理事長としての責務を果たしているとは言えません。それでも彼は諦めません。彼は「諦めず信じていればいつか叶う」という流言を盲信し、だから「生徒たちに自分が諦めた姿を見せてはならない」という使命に呪縛されています。それ故に彼は日々ルーキーズへの寄付を人々に求め、運営資金を集めることだけを繰り返すのです。定款の目的には「努力する事が報われる社会を創造し」と書いてありますから、現在の社会は努力が報われる社会ではないことを認識していたはずです。目的が盲信へと都合よく置き換わってしまっています。
山田さんは江戸時代の農村のような素朴な社会ならば、いい人だっただろうと感じさせる人物で、落ちこぼれの子供たちへの思いから発生するまっすぐで異常なエネルギーに煌めくものを感じます。映画では引きの目線で見ているので、猪突猛進でヤバい感じを受けますが、後に市議会議員に当選するくらいなので、直接会っていたら人当たりもよさそうです。素朴に良いことをしようとしても、社会にウソが蔓延していて、良い行いとは何かを分かることすら難しい現実がこの映画ではただ提示されています。山田さんは「ドロップアウトした子どもたちをほっておけない」という自我によって、不合理を抱えさせられた末に周縁に追いやられました。

もう一人のこの映画の主要人物、野球チームの監督がいます。監督は弱肉強食を内面化しており、例えばチーム内でいじめがあっても、いじめられている子も強くなるべきという思想があるようです。
そのいじめられている子が練習に遅刻する場面があります。遅刻の理由を聞くと、親同士が喧嘩をしていて、それを止めるために自分が自殺すると脅した結果、警察沙汰となり、翌日警察から直接練習場へ向かったと説明しました。説明が終わると同時に、監督はその子に何度もビンタをした後、「二度とするな」と言い捨てます。この監督は前のチームで体罰が原因でクビとなって、ルーキーズに流れ着きました。その後体罰は封印していたそうですが、この時だけはそうする以外なかったと考えていると語っています。社会的に体罰は許されていないことと、また体罰をした場合のリスクは承知した上でカメラの前であってもビンタをしたということになります。
もし私がこの立場だったら体罰はせず、細かく話を聞いた後、最終的に「そういうことはやめよう」というような中身のないことを言うぐらいしかできないと思います。その子にとってはただの時間の浪費ですが、そのような態度が社会から責められることのない"正解"です。監督が実行したビンタは間違いなく社会から責められるもので、“不正解"です。その感情的な行動に指導的効果や支配欲がどの程度混じっているのかを客観的な指標で測ることはできません。体罰は社会に正当性を主張することはできないものであり、それは監督の"わがまま"です。世の中には、体罰なしで子供やその環境としっかり向き合うことに途方もない時間と労力を使って、自身の生活を削っている指導する方もいます。いずれにせよ、周縁では誰かが合理性を超えた行動をすることが求められます。むしろ、中央の合理性からこぼれ落ちたために周縁にいると言った方が適切でしょう。合理的な対処でどうにかできるのなら、そもそも周縁にはいません。中央の規格に刈り揃えられた人たちの安寧のためのルールが合理性であり、規格から外れた人たちに非合理を押し付けた場所が周縁です。周縁の状況を無視して中央の合理性に基づいた常識を押し付けることは暴力です。

東海テレビドキュメンタリシリーズは東海テレビで放送した番組を映画用に編集して、映画館で上映されます。監督のビンタは地上波でも放送されました。このビンタは視聴者の不評を買い、多くの苦情がテレビ局に寄せられたそうです。もちろん製作者側はこの不評の声を想定した上で、その奥側を想像をする人たちへ向けて放送しています。苦情を言う人の中には、ビンタが視聴率稼ぎのための衝撃映像であると捉えた人もいたようです。むしろ、そのような安直な批判に対しテレビは萎縮して、視聴率至上主義に向かわせているのですが…。この作品はリスクをとらない業界の状況に対する挑戦であり、東海テレビのドキュメンタリー班の"わがまま"です。
視聴者からの悪評を買っているのはビンタをした監督だけでなく、山田さんもその対象となっています。

放送後の反響は悪口のオンパレードだった。
「理事長の考えが甘すぎる」「指導者は大局的に物事を見られる人がやらなければ、子どもたちが犠牲になる」「理事長の馬鹿さ加減が情けない」「頭が悪すぎる」「土下座する暇があったら働け」「金策より、タバコやめろ」……
(2013年ホームレス理事長に寄せられたメールより)阿武野勝彦「さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ」

これらは端的に言えば周縁に対する無理解といえます。知らないことを知ろうという気持ちはなく、ただ無理解が直接怒りにつながってしまっています。むしろ中央の常識を押し付けることで発生した不合理を見ないようにしていると言ったほうが適切かもしれません。ドロップアウトした人が努力によって成功を手に入れる物語や不遇な状況に寄り添って悲劇を一緒に悲しめる物語は好きそうです。しかし、もがいてもどうしようもない周縁の現実をただ見せられることは、中央にいる人々にとって不快なことです。「諦めず信じていればいつか叶う」という中央の標語への信心を強化してくれるプロパガンダを人々は求めているからです。

結果的に映画化による広告効果が大きいようで、ルーキーズは映画上映後も存続します。映画を観た人からの寄付があった際の山田さんのコメントがfacebookにあがっています。

■NPO法人ルーキーズ寄附を頂きました。
かれこれあれから5年になりますが、ルーキーズの活動がドキュメンタリー映画化。先週その映画を観たという方から寄附を頂きました。当時、「子どもの貧困」問題はまだ社会的には認知されていない時でした。この映画を観る側も、ルーキーズが取り組む社会問題解決の目的が伝わらず、なかなか本質がわからない映画だったと思います。真っ向から「子どもの貧困」を解決しようとする支援団体は、自らが貧困に陥る。ということを多くの人にわかって頂きたい映画であり、この問題は社会全体で取り組む問題だ。という私のもがきながらの訴えを伝えたかった映画です。(略) 映画を観た方なら少しは分かると思いますが、ルーキーズのような団体は団体そのものが社会から叩かれます。(略)今後格差が次世代に連鎖しますます二極化進むという。負け組街道まっしぐらに進んでいるこどもを一人でも多く、ルーキーズで勝ち組にもっていきたい。「格差」是正に向け、今年はさらに強い気持ちで戦いを挑みたいと思います。2017年1月15日 山田豪さんのFacebookより

この映画は山田さんの期待する形で伝える映画にはなっていなかったとのことです。「分かりやすく悲劇に寄り添える」映画になっていたら、山田さんの期待にも応える形になって、理事長への悪口のメールは来なかったかもしれません。しかし、東海テレビのドキュメンタリ班はそのような明快ですっきりする作品は作らず、視聴者に「もやもや」を突きつけることに挑みます。先の山田さんのコメントにも見られる「勝ち組か負け組か」のような単純に是か非かを分けるような安直さの否定を彼らはしているように思います。

秩序の内側である中央とそこからはみ出た周縁という図式で考えると、監督は中央の常識はお構いなしに監督から見える周縁だけを直視しているのに対し、山田さんは周縁にいるのに中央の常識を盲信していると見立てることができます。
「野球で更生する」という言葉は常識として当たり前のように存在していますが、それは個々人の中でどれほど実体を伴っているかは怪しく、中央に根付く「匿名の権威」の存在を感じる言葉です。「バドミントンで更生する」とか「けん玉で更生する」でもいいと思うのですが、そう言われたら違和感を感じる人が多いでしょう。スポーツは神聖化されており、その中でも野球は最上位にあります。教育には「知を与える教育」と「躾ける教育」があります 知というと、座学で学ぶ知識のようなニュアンスがありますが、ここではもっと広い意味で、体を動かす感覚やコミュニケーションの術などのあらゆる学びを含めて使っています。野球教育が単純に「躾ける教育」でしかないと主張しているわけではありません。もしくは一切の「躾ける教育」を否定したいわけでもありません。。中央になんとなく存在する「教育」という言葉には後者の意味が色濃いと思います。野球部にありがちな厳しい躾に耐え忍ぶことができるか、できないのならば周縁送りされても致し方ないという無意識の価値観が「教育」という言葉に内在しています。中央に蔓延している「教育」は実質的にただの「検品」であり、ルーキーズが掲げる「再チャレンジ」はただの「再検品」に過ぎません。多様な生き方を認めず、安直な基準で判断できると思い込むことを私は愚かしく思います。中央の「匿名の権威」によって勝手に作られた規範に従うよう強制し、そぐわないものを抑圧する姿勢は全体主義そのものです。
先の山田さんのコメントの「ルーキーズのような団体は団体そのものが社会から叩かれる」のは何故でしょうか?中央の規範を満たさない周縁にいる人々は社会的な悪と見做されるからです。自己を失った人たちにとって周縁を攻撃することは「頑張っている自分は中央にいれる」や「中央にいる自分は正しく頑張っている」などと都合の良い解釈によって相対的な安寧を得るための装置となります。山田さんを虐げていたものは自らが盲信している中央の規範です。

もともとは山田さんも素朴に無私に子どもたちのために活動していたことと後に署名偽装の罪を犯してしまったことの間に皆さんは何を想像するでしょうか?もちろん実際に何があったのかは分かりませんが、私の中では直線的なつながりを感じます。
大村知事のリコールはあいちトリエンナーレの「表現の不自由展 その後」での慰安婦像や天皇を扱った作品への反発がきっかけでした。中央への信心を強く持つ人たちにとって、ナショナリズムは最大の拠り所として多くの人びとの受け皿となっています。努力は報われず、社会からは叩かれ、孤立する山田さんが安直なナショナリズムに迎合することで従属感を満たそうとすることは容易に想像できます。ウソの社会に漂う中身のない言葉を盲信する山田さんは地に足つかずふらふらと都合のいい方に流され、最終的に犯罪に加担するところまでずるずると行き着きました。それが不正であることは山田さんも認識していたようですが、流された先の社会では犯罪を選択することの方が合理的だったのでしょう。

結局、何が言いたいのか

人間は社会的な生き物であり、社会通念に従って生きることは当然であり、社会が作り出した価値観に従って生きることも人間の根源的な部分であるといえます。しかし現代社会はいびつであり、社会通念に疑いを持たずに真面目に生きることさえ、そのいびつさを助長してしまう状況にあります。
人はそれぞれの世間の中で生活し、それぞれの世間のルールに従っています。そのルールの範疇をはみ出さなければ、間違いを犯していないと思い込んでしまいがちですが、そのルールは世間が勝手な基準で(そしてしばしば都合のいいように)設定したものに過ぎません(前章で述べたように、例えばスーパーで安い物を買うことも不正義です)。その勝手さの集積が今日の主要な社会問題を形成しています。ウソに支配された社会が正しい方向に向かうことはないのです。つまり今日の社会問題は全体主義に流されたことによる自己の喪失の問題に帰結します。テクノロジーや行政などの"大きな力"で結果論的に見つけた歪みを治そうとしても、それは"小さな声"を無視した公約数的な正義が別の歪みを生むだけです。さらにその"大きな力"がそれを支配している者たちによって都合のいいようにコントロールされると、それは非人道的な暴力に変わります。まずはあなたが、そしてあなたの隣人が、さらにその隣人の隣人がというような連鎖によるボトムアップ的な解決が必要です。
現代社会においてこれまでの歴史を健全に発展させるためには、個々人が社会の勝手な"常識的な"ルールに同調せず自己を保つことが求められています。この章の冒頭の平野さんの言葉のとおり「大きな影響力を持った勢力の正しさ」を疑うこと、そして疑うような機会があることが大切です。自分の外側にある正しさを盲目的に取り入れることなく、外側にある叡智への深い敬意とともに自分の正しさが醸成されることで自己が確立されます。それは「わがまま」として軋轢や無理解を生むこともあるでしょう。全体主義的な大きな力が「わがまま」を無条件に抑圧することは完全な悪ですが、「わがまま」と「わがまま」の衝突は人類の叡智の蓄積のために本質的に必要な争いであると考えます。

文明の発展によって個人主義が進んだ結果、同調性の力はますます増大し、当たり前のようにウソが蔓延し、個人の争う力は相対的に極めて小さなものになっています。2章では、全体主義に抗うにはムラのある連帯が必要であると述べました。同調の激流に抗ってムラを作るためには、孤立しないように寄る辺となるような場が必要です。そのような場において本物への気づきを得ることで、地に足がつき、自分の方向を向くことができるようになります。私にとっての寄る辺がシネマテークでした。さらにシネマテークでの多様性の豊かな映画を見ることで「大きな影響力を持った勢力の正しさ」の中にいる自分を相対的に見つめ、自らの「わがまま」をより強度のあるものに鍛えることもできました。小さな場が豊かで複雑な絡まり合いを形成して連帯していることが健全な社会の有り様です。そのような場が自分勝手なウソの社会によって次々と潰されてしまっています。

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第 5 章
本について

歴史的な本

ブレンダンとケルズの秘密
2009 アイルランドなど
監督: トム・ムーア
9世紀アイルランドを舞台に主人公ブレンダンが「ケルズの書」の制作過程の物語にしたファンタジーアニメ。

「ブレンダンとケルズの秘密」は9世紀アイルランドを舞台としたファンタジーアニメです。この映画は実在の人物や神話などを使って創作されています。当時のアイルランドは大陸とは異なる独自のキリスト教文化や芸術を持ち、修道院が学術、宗教、芸術の中心として機能していました。特にうずまきや同心円などの幾何学模様を細かく組み合わせた精緻な模様が特徴的です。この模様はキリスト教以前の自然と人間の境界があいまいだった時代の土着信仰をルーツに持ちます。

ケルズの書のキー・ロー・ページ。ギリシャ文字のχριが書かれており、キリストを意味する。モノグラムを拡大しても右下のような細かい修飾がされている。

物語の主人公は「ケルズの書」を描く少年です。ケルズの書はアイルランドの国宝で、現在、ダブリンのトリニティ・カレッジ図書館に保管されています。当時は印刷技術がなかったので、聖書は手作業で写本されていました。写本と言っても、ただ文字が書かれるだけでなく、文字や絵が非常に細かい模様で装飾されています。拡大しないと見えないような小さく精緻な描画、様々な色のインクの製造、金などをあしらった装飾は当時の技術を最大限に反映した工芸品です。ケルズの書は世界で最も美しい本と呼ばれています。現代の人から見ても驚くほどに美しいのですから、当時の人達がそこに神秘的な力を感じても不思議ではありません。
映画はアイルランドの伝統に基づいて、幾何学的な模様を多用した中世の美術観で描かれています。そのような映像とシンクロした音楽や効果音が相まって、ケルズの書の美学をそのまま映画にしたような作品になっています。

自然だけでなく人物も幾何学的な線の組み合わせで描かれており、平面的で中世の絵画のような世界がアニメーションする。右下のケルアッハの部屋は、他の景色と対照的に一面文明を想起させる図で埋められている。

主人公ブレンダンには親がおらず、伯父のケルアッハが保護者として育てます。ケルアッハは修道院の院長で強い責任感を持った人物です。彼はヴァイキングから侵攻されることを予期していたので、芸術家までも労働力として使うほどに、とにかく砦の建設に注力します。この映画において砦は文明の象徴的な存在であり、人と自然を切り離すものとしても描かれます。ケルアッハはブレンダンを砦の中に閉じ込めて、砦の建設を手伝わせることに執着し、危険な森へ行くこともケルズの書も描くことも禁止します。

もちろんブレンダンは森へ行きますし、ケルズの書を完成できるように挑みます。彼の成長の物語に重ねて人類が歩んできた道をこの映画は示しています。森の妖精アシュリンと友達となり、自然の中で遊ぶようになります。キリスト教以前の土着の宗教の神クロム・クルアハとの戦いも文明の力を認知することで勝利します。その後、砦に束縛しようとする伯父からの自立を果たし、ケルズの書を完成させるための道を進みます。

途中、砦はヴァイキングに襲われます。ケルズの書は悪の目を潰す力があると信じられていましたが、実際にヴァイキングがその中身を見ても何も起きることはなく、あっさりと本は捨られます。結局、砦もケルズの書もヴァイキングの侵攻を防ぐことはできませんでした。しかしブレンダンもケルアッハも生き延び、最終的にケルアッハに完成したケルズの書を見せることができたところで物語は終わります。

史実上では、アイルランドは9世紀から12世紀にかけてヴァイキングの侵略が頻発し、1169年のノルマン人上陸後、外部からの支配が進行します。他民族から入ってくる言語や文化に上書きされつつも、それでも庶民の中で連綿と文化の伝承は続きます。19世紀末ごろからヨーロッパ諸国で近代化によって国民国家が勃興し、ナショナリズムが盛り上がる中で、ゲール語(アイルランド語)や文化の復興運動が立ち上がります。それは過剰な排外主義と争いを生みながらも、文化が国民のアイデンティティを繋ぐものとして大きな役割を果たしました。そして現在、国宝として残されているケルズの書を題材としてこの映画が制作されました。

この映画を作成したトム・ムーア監督は宮崎駿や高畑勲の影響を受けたそうです トム・ムーア監督のインタビューhttps://www.pen-online.jp/article/000693.html 。また二次元的な表現はグスタフ・クリムトの表現を参考にしたとも語っています。この映画はアイルランド人としての伝統に加えて、いろいろな国に跨った文化とも接続されています。

クリムトのアデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I。ナチスに収奪されたため、戦後も所有権を巡る争いが発生した。Wikimedia Commons

クリムトの平面的な表現や金の装飾は日本美術の影響と言われています。江戸幕府の滅亡によって鎖国が終わると、日本の美術が海外に知られることになり、ヨーロッパではジャポニズムブームが起こりました。またクリムトはウィーン分離派の初代会長です。分離派は既存の権威的で保守的な美術界から分離し、諸外国との活発な触れ合いと商業的な思惑からの脱却を掲げ、純粋で自由な芸術の発展を願って結成されました。その思いとは反対に、ドイツの伝統芸術に反するクリムトの作品はナチスの侵略によってその多くが没収され、中には今では失われた作品もあります。

文化は複雑な歴史上の絡まり合いの中で形成されてきました。それは時に安直な集団による自分勝手な暴力を受けて、文化が失われる危機にさらされました。それでも人々は抑圧された環境の中で自分たちの文化から力をもらい、また将来の人々にも力を与えるように文化は受け継がれてきました。
現代社会の表層だけを見るとウソだらけでゴミの塊のように思うこともあるかもしれませんが、すこし汚れを拭き取って、その奥側を掘り起こせば、際限なく人類の叡智を見ることができます。本はこの掘り起こしをするツールの一つです。残念なことに巷の本屋に溢れているのは、ウソの社会に迎合するための実用書であったり、ウソの社会への信心を強化するためのフィクションばかりです。それでも経済的不合理を抱えてでも、“わがまま"な本を届けようとする本屋もいっぱいあります。ぜひそのようなお店を見つけて行ってみてください。

Dynabookとオープンソース

アラン・ケイの小論文で使われているイラスト

1972年、アラン・ケイは「A Personal Computer for Children of All Ages(あらゆる年齢の「子供たち」のためのパーソナルコンピュータ)」という小論文 有志による日本語訳はここにあります。https://swikis.ddo.jp/abee/74
「あらゆる年齢の子供たち」という言い回しは、社会的な意味を無視して自らの感覚で感じるような子供の部分が年齢に関わらず存在しているということと私は解釈しています。
でパーソナルコンピュータという概念を提示しました。当時のコンピュータは研究所や大企業などに置かれていて、計算やデータ処理をするためのものであり、個人が所有できるものではありませんでした。そのような時代に現在のタブレットのような端末で子供が遊ぶ姿をケイは論文で提示しました。この想像上の端末はdynabookと名付けられます東芝のノートPCの名称の由来となりましたが別物です。dynamicとbookを組み合わせた命名で、直訳すれば動的な本という意味になります。dynabookがどんな本かは下記のように説明されています。

その本は、テレビが持つような注意を惹きつける力を持ちながらも、その力をテレビ局側からではなく、子供自身によって制御できるようなものになるでしょう。それはピアノのようなものですが:(はい、これもテクノロジーの産物です)ツールであり、おもちゃであり、表現のメディアであり、果てしない喜びの源泉であり…そしてまた、他の物と同様に、無知なものの手にかかれば酷い苦役の元にもなるのです!!あらゆる年齢の「子供たち」のためのパーソナルコンピュータ より

ここでケイは"誰が制御しているか"を重視している点に着目してください。現代人にとってコンピュータは「喜びの源泉」でしょうか?「苦役の元」でしょうか?ケイの「喜びの源泉」はフロムの「積極的自由」に対応するといえます。要するに「喜びの源泉」であるか否かは、コンピュータを使っている人自身の意志でコントロールできているのか、それとも別の誰かによってコントロールされているのか、という問に言い換えることができます。

現在のコンピュータはケイが提示したような自由を探求するためのツールとしての側面が希薄であるように感じます。誰もがスマホを所有する時代になり、つねに他者との比較にさらされるようになった結果、自己顕示欲や不安を効率的に刺激できるようになり、人々はより肥大化した承認要求に束縛されることになりました。また、コンピュータによる膨大な情報処理能力は資源や労力を数値に置き換えてグローバルな大量消費の経済を可能としています。グローバル経済は弱者に不平等を押し付けることを犠牲にして、安く便利な商品を大量供給します。そのような公約数的便益を受ける社会において、そこから外れるような"わがまま"な商売をしようとすることは安く便利な商品との競争を強いられることを意味し、実質的に抑圧されます。結局、現在の私たちの生き方はウソの合理性に束縛されることになりました。
ここで、これまで人類は自然や社会制度上の束縛から解放されてきたことを思い出してください。次は社会が作り出したウソの欲望からの自由が人類の進むべき道であると考えます。常識的で合理的な生き方をしていれば、それが叡智の発展と自然に接続されるような環境が作られるべきです。すべてを任せっぱなしにして受け身でいるだけで、そのような社会を誰かが与えてくれることはありません。コントロールを私たちの手に取り戻す必要があります。

DynabookのOSであるSmalltalkは完全なコントロールをユーザーにゆだねています。実行中の操作のコードを参照して、さらに書き換えることで動作を更新することも可能です。小論文に出てくる子どもたちは宇宙戦争ゲームのソースコードを開き、プログラムを書き換えて、コンピュータの中で物理法則の実験をしています。私たちが現在使っているコンピュータはDynabookのようなダイナミックさには向かっていません。多くのケースで企業がデザインした利用方法に沿って使わされています。またコードもデータも企業が所有し、詳細がブラックボックスとなっています。
一方で膨大なソースコードは共有資産として公開されており、多くの技術者たちが日々アップデートしています。みんなで発展させていくことを目的としてソースコードを誰でも見えるようにすることをオープンソースと言います 1980年代にリチャード・ストールマンを中心にソースコードを共有財産として維持していくための運動が始まりました。昨今のオープンソース化の流れはその時の思想を引き継いでいるというより、開発手法として優れているからという側面が大きいです。つまりソースコードを独占するより、多くの技術者と共有して品質を向上させた方が企業としてもメリットが大きいのです。またクラウド化やAIの利用範囲が広がる中で、データや計算リソース、ユーザーの囲い込みが価値を持ち、ソースコードを非公開にする理由が弱くなっています。技術が自由に使えるかどうかが企業の都合次第で変わりうる現状は認識しておく必要があります。。

本書は多くのオープンソースのアプリケーションやライブラリを利用しています。HTMLの生成にはhugoを使用しています。Javascriptのライブラリとして、グラフの描画にchart.js、ツールチップの表示にtippy.js、画像の拡大表示にglightboxを使用しています。変換元のmarkdownはemacsを、説明画像はLibre officeを使用して作成しました。OSはlinuxを使用しています。本書が依存しているソフトウェアは、もっと掘り起こせば、まだまだいくらでも挙げることができるでしょう。

本書では、いくつかの映画や本などを挙げていますが、それ以外にも様々なものを血肉とした結果として本書ができています。この本は膨大な人類の叡智の上にあります。さらにこれを読んだあなたが次の叡智を育んでくれたら、こんなに喜ばしいことはありません。
本書はhttps://github.com/kuku9-net/wagacoにてソースを公開しています。自由に全体または一部を改変したり、コピペしたりして、再配布してください。もちろん思想的に相容れないところを変えてもらっても結構です。ただし、再配布した場合、円やドル、その他それらに換金可能な通貨での売買は禁止です。

支払い方法

最後まで本書をお読みいただき、ありがとうございます。大事なことをお伝えしたいのですが、本書はタダではありません。読んだ分の価値に対するお支払いをお願いします 金銭の支払いがなければ、Creative Commons Attribution-NonCommercialを満たすと思っているのですが、間違っているかもしれません。。しかし、ここまで読まれたなら理解いただけると思いますが、全体主義に支配された現在の市場にこの本の値段を適切につけることは期待できませんし、ファシズム経済に加担したくもありません。現在の自由市場に任せて合理的な行動をするならば、暴力的な搾取構造を肯定することになりますし、それに抗って非合理的な行動をするのはしんどいのでイヤです。
ウソだらけのあっち側から切り離されたこっち側の経済が必要です。こっち側の経済の上での活動は不正義が混在しておらず、歴史と健全に接続されていて、その発展に寄与できることが約束されているような、そんな経済を作る必要があります。あっち側の経済で非合理的に周縁に散らばっている人々をこっち側のネットワークの中に繋ぐことで、孤立した人々の拠り所となる場としても機能します。

こっち側とあっち側

だれでも手軽に作れる経済として贈与経済があります お手軽だから推奨しているだけで、物々交換や貨幣経済を否定しているわけではありません。円と切り離された貨幣経済を作れるならば、それは魅力的ですが、紙幣類似証券取締法という法律で紙幣と類似の機能をするものは禁止されているので、安全に貨幣を作るには、法改正または政府の解体が必要です。。以下のいずれかの方法でお支払いをお願いします。

方法① 直接渡す

私にこの本に見合うだけの価値のある物やサービスをください。かしこまった贈り物がほしいわけでなく、生活の中の余ったものをおすそ分けというイメージです。あちら側の経済の影響が少ないほど好ましいですし、あなたが生産したものならば最高です。一人に集中してあげても、複数人に分散してあげてもOKです。

方法② 間接的に渡す

あなたの周りのこっち側っぽい人を探して、その人が必要そうなものをあげてください。そして、その人にこの本のことを伝えて、その人がまた他の人を探して、次のその人が必要そうなものをあげてください。それがずっと続けば、いつか私に何かが届くかもしれません 贈与がループしてクラ交易 と同じ構造になったのなら、それはそれでうれしいです。。

方法③ 健全なお店でお金を使う

それも難しければ、シネマテークのような経済的な合理性を超えた何かのためにお金を使ってください。小さな映画館はもちろんのこと、ライブハウス、イベントスペース、独立系書店、その他の個人の店、地元の野菜や工芸品を作っている人々などです。

ちなみにシネマテークは閉館しましたが、2024年「ナゴヤキネマ・ノイ」として復活します。状況は何も変わっていないので、厳しい経営状況は続くことが想定されます。ウソの社会に抗いたい人は是非行きましょう。

方法④ 本書を"熱心に"広める

何かをあげる余裕がない場合は、その分、他の人にこの本を広めてください。この時、ただSNSなどでURLを拡散するのではなく、一人ひとり目標を定め、しっかりとあなたの思いを込めてください。量より質が大事です。

方法⑤ 感想をメールする

感想、批判、お気づきの点などあれば下記までご連絡をお願いします。
email: wagaco@kuku9.net

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