この章ではシネマテークで上映された2本のドキュメンタリ映画を紹介します。ドキュメンタリは事実を撮影したものであったとしても、何を撮ろうとしたのかという選択と撮ったものをどのように見せるのかという監督の意図が入ります。なので、例えば「Aさんは〇〇です」という文は「監督の見せようとしているAさんの表現から私が解釈したAさんは〇〇であると思った」という意味になります。この章は特に主観的な見解が強めになっていることを理解した上で読み進めてください。
オウムの社会とその外側
大きな影響力を持った勢力が、「これが正しい!」と言ったら、それを疑い、検証するような、そして自分自身の思考も問い直されるような映画をやっていくこと。そこにミニシアターの意義がある。「小さな映画館から」 『A』から『FAKE』へ 〜森達也の帰還〜
「小さな映画館から」で平野さんがこのように語っています。1998年公開の森達也監督の「A」を見て、この思いがはっきりしたそうです。
「A」はサリン事件後のオウムの内側に潜入して撮影した作品です。この映画では事務所の中で尊師の念仏とか歌が流れていることや変な器具を着けて修行している様子も含めて、どのメディアよりも生々しく信者の様子を映し出しています。当時のメディアはオウムの信者はマインドコントロールされていて、まともな判断力も感情もないということになっていました。この映画を見ると、それまで報道されていたイメージとはギャップを感じます。それぞれしっかりと人格があり、みんなでテレビを見ながら、自分たちの報道のされ方を談笑したりしています。特にオウムの広報である荒木さんはお人好しさと節々に見られる人間的なゆらぎが興味を引く人物で、映画も荒木さんを中心に進みます。
信者の話で、特にはっきり理解できるのは私たちの社会への批判です。彼らは世俗としっかり向き合っており、世間はウソの社会であることをよく理解しています。それが分かっているからこそ、世俗を捨ててオウムに入信したのです。
一方で彼らのオウムへの信心はよく理解できません。理解できないので、私の主観に偏ったことしか言えませんが、やはり彼らの信心の語りは現実と向き合わないための方便というのが率直な印象です。何か不条理があっても、すべて修行で片付けてしまいますし、食欲や性欲をなくす修行は自己を消すことで安寧を求めているように感じました。世俗も自己も放棄して宿罪から逃れたいだけならば、人類の歴史との接続の否定であると私は考えます。
「A」はオウムから見た外側の世界として、マスコミ、警察、そして世間を映しています。森監督の映画や著作はメディアおよび世間の思考停止がしばしば取り扱われます。
マスコミは信者を「犯罪集団のオウム」という記号でしか捉えず、記号の先にある個人と向き合うことはありません。個人に対する礼節もなく、視聴者の望む像を撮って視聴率を稼ぐことだけに執着しています。荒木さんは隠し撮りやだまし討などのマスコミの酷さに辟易しながら、正当に取材してくれと要求します。マスコミは抗議書にも回答しないし、荒木さんからマスコミへ電話しても会議中と言って取り次いでもらえません。にもかかわらず、マスコミは自分勝手に屁理屈をこねて取材をしようとします。屁理屈に対して揉める中で、荒木さんに「常識的にそうでしょ」との指摘に反論できず、気まずさをごまかすような一笑の後、それでもまだ取材をしようと要求を続けます。彼らは「市民を代表している正義のマスコミ」という記号をまとい、それに対する「市民の敵」としてのオウムという図式がインストールされていて、それ以上のことは考えられないようです。
NHKは常識的な作法で許可を取ったのか、一般信者のインタビューをすることができたようで、その様子も映画に撮られています。信者は冷静に応えているのに、期待するストーリーの回答が得られないのか、インタビュアーはしどろもどろになっていました。インタビューが成立してないと判断されて中断した後に、信者は「これ放送されたらマヌケだろうな」とつぶやいています。中断後もインタビュアーはどうにか報道できるストーリに乗せようとして、誤解なく伝えることはできないかと尋ねますが、「誤解は聞く側がすることですから」と答えます。社会から与えられた図式を超えたことを世間は考えられないことをこの信者は理解しています。
「A」の3年後の様子を撮った「A2」では、地域に住むオウムの家を監視していた近隣住民がすっかり仲良くなっている場面が映されています。フジテレビのカメラもその場面にいるのですが、このような仲の良い場面が放送されることはないそうです。実際に放送されたとしたら、反感を買うだけでしょう。森監督が著した「「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔」には、森監督が撮ったオウムの映像を放送することを世間の反感を怖れて禁忌するマスコミの様子が具体的に書かれています。
マスコミからはオウムは悪であり市民の敵であるというストーリーが流れ、市民はそれに従って、オウムが引っ越しをする度に排斥運動を始めます。オウムを訴えた住民が裁判所へ提出した書類には、「バカ集団」、「こいつら」、「人の顔しているだけで人間ではない」、「こんな殺人集団に、人権どうのこうのと言うのは論外で人権を与える必要はない」などの言葉で記述されており、排斥的な感情が顕になっています。
警察の転び公妨
も撮影されています。法治国家の規範を逸脱した行為ですが、この警官はカメラに写っていることをはっきりと認識した上での行動です。悪のオウムを捕まえるための正義の行動と言わんばかりに堂々としたものです。それが当時の公安の醸成されていた空気なのでしょう。この警官は彼の社会の常識に従って行動をしていただけと思いますが、それがルールを逸脱することがあります。警察のような暴力装置は、国家が独占している暴力を主権者である国民から委譲されているという体になっているので、彼らの勝手なモラルで仕事をされては困ります。
この映画は1999年のベルリン国際映画祭でも上映されています。そこでの質疑応答でこう言われたらしいです。
「オウムの信者はもちろん、この作品に登場するメディアも、警察も、一般の市民も皆、リアルな存在にはどうしても見えない。まるであらかじめ台本を渡されてロールプレイングをやっているとしか私には思えない。これが本当に実在する人たちなら、日本という国はそうとうに奇妙だと思う。要するにフェイクな国だ」森達也『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』 エピローグ
ドイツから日本をみれば、客観的に社会のヘンテコさが見えるのでしょう。森監督はドイツの社会も同じようなものだろうと回答したら、そんなはずはないという反発を受けたそうです。
海外での反響の大きさに反して、日本での「A」の公開当時の集客はいまいちだったそうです。これまで他のマスメディアが撮影できなかったオウムの実態を捉えた多くの映像は集客につながりませんでした。日本人が求めていたのは、オウムという共通の敵に憎悪を向けて、一体感を得るための装置であって、自分たちがウソに支配されていることを突き付けられることは望んでいないのでしょう。
この節の冒頭の平野さんのコメントは伝わったでしょうか?これが社会に許されないシネマテークの"わがまま"です。
周縁とその内側の社会
アメリカの議会襲撃事件の少し後、日本でもウソの社会と現実の乖離が表出した事件がありました。愛知県知事のリコール署名偽装事件です。アメリカの議会襲撃と比べるとインパクトが弱いですし、結局、河村市長も再選し、なあなあで終わってしまいました。
この事件の7年前、シネマテークで東海テレビドキュメンタリ「ホームレス理事長」が上映されました。この映画の中心人物、ホームレス理事長こと山田豪さんは、後に日本維新の会の公認で市議会議員に当選し、さらにその後、リコール団体の副事務局長として署名偽装に加担し、逮捕されることになります。
山田さんはNPO法人ルーキーズの理事長です。定款には次の目的が記載されています。
この法人は、高校野球部を退部し更に高校を退学した者に対して、野球に関連する事業を通じて、再チャレンジ教育の環境をつくり、努力する事が報われる社会を創造し、明るく豊かで希望を見出せる社会の実現に寄与することを目的とする。内閣府NPO法人ポータルサイトより
ようするにルーキーズは落ちこぼれ野球少年のために野球ができる環境を提供し、「野球で更生する」ことを目的とした学校です。率直に言って、前のめりで来るような人はおらず、居場所のない若者たちが消極的に入ってしまう「社会の周縁」と言える場所です。生徒は思うように集まらず、経営が厳しく存続が危ういというところから映画がスタートします。
映画の最初から最後まで山田さんがやることは金策(スナックに飛び込み営業して寄付を求めたり、闇金に借りたりなど)と、あとは自分の生活を削ること(タイトルの通り最終的にホームレスになります)、それだけです。職員の会議にも参加せず、現状の問題点や改善策を考えている様子もなく、何らかの気づきによって事態が好転することもありません。
社会的規範に則って言えば、生徒や職員に対してNPOの理事長としての責務を果たしているとは言えません。それでも彼は諦めません。彼は「諦めず信じていればいつか叶う」という流言を盲信し、だから「生徒たちに自分が諦めた姿を見せてはならない」という使命に呪縛されています。それ故に彼は日々ルーキーズへの寄付を人々に求め、運営資金を集めることだけを繰り返すのです。定款の目的には「努力する事が報われる社会を創造し」と書いてありますから、現在の社会は努力が報われる社会ではないことを認識していたはずです。目的が盲信へと都合よく置き換わってしまっています。
山田さんは江戸時代の農村のような素朴な社会ならば、いい人だっただろうと感じさせる人物で、落ちこぼれの子供たちへの思いから発生するまっすぐで異常なエネルギーに煌めくものを感じます。映画では引きの目線で見ているので、猪突猛進でヤバい感じを受けますが、後に市議会議員に当選するくらいなので、直接会っていたら人当たりもよさそうです。素朴に良いことをしようとしても、社会にウソが蔓延していて、良い行いとは何かを分かることすら難しい現実がこの映画ではただ提示されています。山田さんは「ドロップアウトした子どもたちをほっておけない」という自我によって、不合理を抱えさせられた末に周縁に追いやられました。
もう一人のこの映画の主要人物、野球チームの監督がいます。監督は弱肉強食を内面化しており、例えばチーム内でいじめがあっても、いじめられている子も強くなるべきという思想があるようです。
そのいじめられている子が練習に遅刻する場面があります。遅刻の理由を聞くと、親同士が喧嘩をしていて、それを止めるために自分が自殺すると脅した結果、警察沙汰となり、翌日警察から直接練習場へ向かったと説明しました。説明が終わると同時に、監督はその子に何度もビンタをした後、「二度とするな」と言い捨てます。この監督は前のチームで体罰が原因でクビとなって、ルーキーズに流れ着きました。その後体罰は封印していたそうですが、この時だけはそうする以外なかったと考えていると語っています。社会的に体罰は許されていないことと、また体罰をした場合のリスクは承知した上でカメラの前であってもビンタをしたということになります。
もし私がこの立場だったら体罰はせず、細かく話を聞いた後、最終的に「そういうことはやめよう」というような中身のないことを言うぐらいしかできないと思います。その子にとってはただの時間の浪費ですが、そのような態度が社会から責められることのない"正解"です。監督が実行したビンタは間違いなく社会から責められるもので、“不正解"です。その感情的な行動に指導的効果や支配欲がどの程度混じっているのかを客観的な指標で測ることはできません。体罰は社会に正当性を主張することはできないものであり、それは監督の"わがまま"です。世の中には、体罰なしで子供やその環境としっかり向き合うことに途方もない時間と労力を使って、自身の生活を削っている指導する方もいます。いずれにせよ、周縁では誰かが合理性を超えた行動をすることが求められます。むしろ、中央の合理性からこぼれ落ちたために周縁にいると言った方が適切でしょう。合理的な対処でどうにかできるのなら、そもそも周縁にはいません。中央の規格に刈り揃えられた人たちの安寧のためのルールが合理性であり、規格から外れた人たちに非合理を押し付けた場所が周縁です。周縁の状況を無視して中央の合理性に基づいた常識を押し付けることは暴力です。
東海テレビドキュメンタリシリーズは東海テレビで放送した番組を映画用に編集して、映画館で上映されます。監督のビンタは地上波でも放送されました。このビンタは視聴者の不評を買い、多くの苦情がテレビ局に寄せられたそうです。もちろん製作者側はこの不評の声を想定した上で、その奥側を想像をする人たちへ向けて放送しています。苦情を言う人の中には、ビンタが視聴率稼ぎのための衝撃映像であると捉えた人もいたようです。むしろ、そのような安直な批判に対しテレビは萎縮して、視聴率至上主義に向かわせているのですが…。この作品はリスクをとらない業界の状況に対する挑戦であり、東海テレビのドキュメンタリー班の"わがまま"です。
視聴者からの悪評を買っているのはビンタをした監督だけでなく、山田さんもその対象となっています。
放送後の反響は悪口のオンパレードだった。
「理事長の考えが甘すぎる」「指導者は大局的に物事を見られる人がやらなければ、子どもたちが犠牲になる」「理事長の馬鹿さ加減が情けない」「頭が悪すぎる」「土下座する暇があったら働け」「金策より、タバコやめろ」……
(2013年ホームレス理事長に寄せられたメールより)阿武野勝彦「さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ」
これらは端的に言えば周縁に対する無理解といえます。知らないことを知ろうという気持ちはなく、ただ無理解が直接怒りにつながってしまっています。むしろ中央の常識を押し付けることで発生した不合理を見ないようにしていると言ったほうが適切かもしれません。ドロップアウトした人が努力によって成功を手に入れる物語や不遇な状況に寄り添って悲劇を一緒に悲しめる物語は好きそうです。しかし、もがいてもどうしようもない周縁の現実をただ見せられることは、中央にいる人々にとって不快なことです。「諦めず信じていればいつか叶う」という中央の標語への信心を強化してくれるプロパガンダを人々は求めているからです。
結果的に映画化による広告効果が大きいようで、ルーキーズは映画上映後も存続します。映画を観た人からの寄付があった際の山田さんのコメントがfacebookにあがっています。
■NPO法人ルーキーズ寄附を頂きました。
かれこれあれから5年になりますが、ルーキーズの活動がドキュメンタリー映画化。先週その映画を観たという方から寄附を頂きました。当時、「子どもの貧困」問題はまだ社会的には認知されていない時でした。この映画を観る側も、ルーキーズが取り組む社会問題解決の目的が伝わらず、なかなか本質がわからない映画だったと思います。真っ向から「子どもの貧困」を解決しようとする支援団体は、自らが貧困に陥る。ということを多くの人にわかって頂きたい映画であり、この問題は社会全体で取り組む問題だ。という私のもがきながらの訴えを伝えたかった映画です。(略) 映画を観た方なら少しは分かると思いますが、ルーキーズのような団体は団体そのものが社会から叩かれます。(略)今後格差が次世代に連鎖しますます二極化進むという。負け組街道まっしぐらに進んでいるこどもを一人でも多く、ルーキーズで勝ち組にもっていきたい。「格差」是正に向け、今年はさらに強い気持ちで戦いを挑みたいと思います。2017年1月15日 山田豪さんのFacebookより
この映画は山田さんの期待する形で伝える映画にはなっていなかったとのことです。「分かりやすく悲劇に寄り添える」映画になっていたら、山田さんの期待にも応える形になって、理事長への悪口のメールは来なかったかもしれません。しかし、東海テレビのドキュメンタリ班はそのような明快ですっきりする作品は作らず、視聴者に「もやもや」を突きつけることに挑みます。先の山田さんのコメントにも見られる「勝ち組か負け組か」のような単純に是か非かを分けるような安直さの否定を彼らはしているように思います。
秩序の内側である中央とそこからはみ出た周縁という図式で考えると、監督は中央の常識はお構いなしに監督から見える周縁だけを直視しているのに対し、山田さんは周縁にいるのに中央の常識を盲信していると見立てることができます。
「野球で更生する」という言葉は常識として当たり前のように存在していますが、それは個々人の中でどれほど実体を伴っているかは怪しく、中央に根付く「匿名の権威」の存在を感じる言葉です。「バドミントンで更生する」とか「けん玉で更生する」でもいいと思うのですが、そう言われたら違和感を感じる人が多いでしょう。スポーツは神聖化されており、その中でも野球は最上位にあります。教育には「知を与える教育」と「躾ける教育」があります。中央になんとなく存在する「教育」という言葉には後者の意味が色濃いと思います。野球部にありがちな厳しい躾に耐え忍ぶことができるか、できないのならば周縁送りされても致し方ないという無意識の価値観が「教育」という言葉に内在しています。中央に蔓延している「教育」は実質的にただの「検品」であり、ルーキーズが掲げる「再チャレンジ」はただの「再検品」に過ぎません。多様な生き方を認めず、安直な基準で判断できると思い込むことを私は愚かしく思います。中央の「匿名の権威」によって勝手に作られた規範に従うよう強制し、そぐわないものを抑圧する姿勢は全体主義そのものです。
先の山田さんのコメントの「ルーキーズのような団体は団体そのものが社会から叩かれる」のは何故でしょうか?中央の規範を満たさない周縁にいる人々は社会的な悪と見做されるからです。自己を失った人たちにとって周縁を攻撃することは「頑張っている自分は中央にいれる」や「中央にいる自分は正しく頑張っている」などと都合の良い解釈によって相対的な安寧を得るための装置となります。山田さんを虐げていたものは自らが盲信している中央の規範です。
もともとは山田さんも素朴に無私に子どもたちのために活動していたことと後に署名偽装の罪を犯してしまったことの間に皆さんは何を想像するでしょうか?もちろん実際に何があったのかは分かりませんが、私の中では直線的なつながりを感じます。
大村知事のリコールはあいちトリエンナーレの「表現の不自由展 その後」での慰安婦像や天皇を扱った作品への反発がきっかけでした。中央への信心を強く持つ人たちにとって、ナショナリズムは最大の拠り所として多くの人びとの受け皿となっています。努力は報われず、社会からは叩かれ、孤立する山田さんが安直なナショナリズムに迎合することで従属感を満たそうとすることは容易に想像できます。ウソの社会に漂う中身のない言葉を盲信する山田さんは地に足つかずふらふらと都合のいい方に流され、最終的に犯罪に加担するところまでずるずると行き着きました。それが不正であることは山田さんも認識していたようですが、流された先の社会では犯罪を選択することの方が合理的だったのでしょう。
結局、何が言いたいのか
人間は社会的な生き物であり、社会通念に従って生きることは当然であり、社会が作り出した価値観に従って生きることも人間の根源的な部分であるといえます。しかし現代社会はいびつであり、社会通念に疑いを持たずに真面目に生きることさえ、そのいびつさを助長してしまう状況にあります。
人はそれぞれの世間の中で生活し、それぞれの世間のルールに従っています。そのルールの範疇をはみ出さなければ、間違いを犯していないと思い込んでしまいがちですが、そのルールは世間が勝手な基準で(そしてしばしば都合のいいように)設定したものに過ぎません(前章で述べたように、例えばスーパーで安い物を買うことも不正義です)。その勝手さの集積が今日の主要な社会問題を形成しています。ウソに支配された社会が正しい方向に向かうことはないのです。つまり今日の社会問題は全体主義に流されたことによる自己の喪失の問題に帰結します。テクノロジーや行政などの"大きな力"で結果論的に見つけた歪みを治そうとしても、それは"小さな声"を無視した公約数的な正義が別の歪みを生むだけです。さらにその"大きな力"がそれを支配している者たちによって都合のいいようにコントロールされると、それは非人道的な暴力に変わります。まずはあなたが、そしてあなたの隣人が、さらにその隣人の隣人がというような連鎖によるボトムアップ的な解決が必要です。
現代社会においてこれまでの歴史を健全に発展させるためには、個々人が社会の勝手な"常識的な"ルールに同調せず自己を保つことが求められています。この章の冒頭の平野さんの言葉のとおり「大きな影響力を持った勢力の正しさ」を疑うこと、そして疑うような機会があることが大切です。自分の外側にある正しさを盲目的に取り入れることなく、外側にある叡智への深い敬意とともに自分の正しさが醸成されることで自己が確立されます。それは「わがまま」として軋轢や無理解を生むこともあるでしょう。全体主義的な大きな力が「わがまま」を無条件に抑圧することは完全な悪ですが、「わがまま」と「わがまま」の衝突は人類の叡智の蓄積のために本質的に必要な争いであると考えます。
文明の発展によって個人主義が進んだ結果、同調性の力はますます増大し、当たり前のようにウソが蔓延し、個人の争う力は相対的に極めて小さなものになっています。2章では、全体主義に抗うにはムラのある連帯が必要であると述べました。同調の激流に抗ってムラを作るためには、孤立しないように寄る辺となるような場が必要です。そのような場において本物への気づきを得ることで、地に足がつき、自分の方向を向くことができるようになります。私にとっての寄る辺がシネマテークでした。さらにシネマテークでの多様性の豊かな映画を見ることで「大きな影響力を持った勢力の正しさ」の中にいる自分を相対的に見つめ、自らの「わがまま」をより強度のあるものに鍛えることもできました。小さな場が豊かで複雑な絡まり合いを形成して連帯していることが健全な社会の有り様です。そのような場が自分勝手なウソの社会によって次々と潰されてしまっています。