シーラの深海
儀式の意味

狂い

すでに歩の脳みそは体の支配権を譲っていた。脳から心臓へ。心臓から脈動へ。細胞は膨らみ、心は潜る。筋肉が問い、骨が答える。全身の細胞が目的を共有している。協調ではない。それらの独善的な動きの方向の完全な一致によって、総体としての統一を果たしている。機能はエネルギーの創出に集中し、組織の維持は忘却される。丁寧に積み重ねられた組織の秩序が崩壊する音がする。こんなことは二度と経験したくない。それは間違いのない本音だ。けどもしいて言葉にすれば、狂乱。今までの人生にはなかった細胞の歓喜が歩を包み始めていた。すべての時間を同時に把握し、繰り返す空間を視神経が走る。

歩は店を飛び出し、人生を振り返るかのようにもと来た道を疾走する。すべての秩序を失った歩の脳は五感から入ってくるものをそのまま受け止め、再度配線を作り直し始めた。

「海岸街区地下街、シーラの深海は、みなさまの明るく楽しい生活を応援します・・・」

地下街のアナウンスとBGMが鳴っている。

「シンセサイザーの音、プリセットから少しいじってあるようですね」

ハルの声が聞こえた。歩はプリセットから微妙にいじられたシンセサイザーの音のゆらぎをすべて受け止め、脳内に豊かに再現するように脳を再生する。プリセットに満足しないクリエイター。最高の電子音をつくろうとプリセットを決定するメーカーの開発者。電子の力を音に変換することを可能にした技術者、研究者たち。歴史をその内側に抱え込んだゆらぎが歩の脳を再生する。

宇宙を漂う砂塵のひとすじが、うずまき、面をなし、振動したかと思うと、ぱっとちらけて、光をもたらし、色を照らし、形を創り出して、集まっていき、その凝集のさきに、この世界ができあがっていく。

歩は見た。宇宙の誕生を。開闢の炎が冷えゆくとともにぽつぽつと灯る星雲の光を。まわる銀河のひとすじの腕に抱かれてつつましく鎮座する太陽系を。地球、・・・・・・。 生命の発生、哺乳類の誕生。胎盤を通り抜ける頭蓋骨の柔らかさと肥大化する脳。霊長類の、直立歩行のはじまり。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の交雑。ユーラシア大陸を渡る人類。氷河期の飢餓と変化しゆく遺伝子。ちりぢりに受け継がれてきたひとつの遺伝子、歩の誕生。そうして織り成されてきた文化の中を、歩は育ってきたのだ。

歩はアフリカの土を踏み鳴らす宗教行事の中にいた。歩はその儀式の意味を完全に理解して、皆と一緒にステップを踏んだ。そのリズムのひとつひとつが歩の脳の配線を再生し、歩が登っているのは地下街から地上へとつなぐ長い階段であることに徐々に気づいていった。脳が一通りの認知機能を回復させた後も、さらなる先を求めて穏やかな陽の光を放つ出口へと駆け上がり続けた。

地上

久しぶりの太陽は眩しかったが、思ったほどではなかった。大量の煙が太陽を隠していたからだ。あたりを見回すと建物は崩壊し、火の海になっている。やけにうるさいドローンが空の低いところを飛び回っている。歩はその遠慮のない音に辟易として、とりあえず音楽が聞ける場所を探して歩き始めた。