米粒の喩え
ハルは床にできた米粒の山を前に話し始めた。
「歩、あなたにはこの白い山は何に見えますか?」
「米、の山?」
「それはインディカ米さ。私の特製スパイスを調合したカレーに一番あう米を見つけて輸入したんだ」
じつは歩はカレーのいい匂いが気になっていた。この老人には、ただならぬ人生を歩んできたのだろうという印象を強烈に植えつけられていた。その人物がこだわったカレー。もっと、気持ちがカレーに支配されてもよさそうなものだが、今日はそのような思いを上書きするような出来事が次々とあらわれて、それどころではない。今も眼の前には米を勝手に床にばらまく人が何かを言っている。
「知識は時に目に見えないものを探し出す手伝いをしてくれるでしょう。知識は好奇心や観察眼の礎を作ります。統計学者は散らばりの疎密に法則性を見出すかもしれません。物理学者は米粒ひとつひとつの運動を紐解くかもしれません。両者はやがて、手を取り合わなければならないでしょう。統計の法則は運動の方程式から生まれ、運動の方程式は統計の偶然に左右されます。運命を切り開くことも、運命に隷属することもできません。見えないものを見たとてそれは通り道のひとつに過ぎません。そして、・・・」
ハルはしゃがむと、散らばった米粒をひとつ手にとった。親指と人差し指でつまんだひと粒の米をハルと歩の目線の上に持ってきた。
「これがあなたです。歩」
というと、ハルはその米粒を山の頂上へ落とした。歩の好奇心は自分を米粒と同化させて、その一瞬を長い時間に感じるようにスローモーションで引き伸ばしていた。
「何がおこりましたか?」
お米となった歩はハルの指から放たれ、山の頂上向けてへ落下する。頂上付近のある米に直撃した。
「衝撃でぶつかった米の角度は変わったけど、そいつはその場に耐えた。その衝撃は隣の米にも伝わって、またその隣の米も・・・でもみんなその場に耐えたみたいだ」
歩はその場に留まった米たちと別れを告げる間もなく、山の下へ転がっていき、さらに何度か他の米とぶつかり続ける。
「たまたま尖った部分がうまく窪みに突き刺さって、山の7合目あたりで落ち着いた。ぶつかった米のいくつかは衝撃に耐えられず、もっと下へ転がっていったみたいだ」
ハルは床に散らばったお米を数粒掬い上げた。そしてその手を山の上空に持っていき、少しずつ傾けていく。歩の上から次々とお米が降ってくる。そのうちのひと粒が歩を支えていた米にかすり、バランスを崩したため、その米も流れ落ちた。
「あ、支えていた米がなくなって、一緒に流れ落ちていく。また他の米にぶつかって、どんどん流れる米が増えていく。その流れは次々とお米を巻き込んで、もう誰も抗うことができない。なんとかその流れから抜け出して山の3合目あたりで落ち着いた。他のやつらはもっと下まで流れてしまったようだ。最初はひと粒ひと粒のお米のぶつかりあいだったのに、ついには山の形を変えるくらいの大雪崩になった」
「結果的にできた大きな流れも細かく見ると、ひと粒の米のうごきの連鎖によって生じることがわかります。あなたが流されなければこの大雪崩は起きなかったかもしれません。あなたが雪崩のきっかけとなったとも言えるし、あなたは流されていただけとも言えます。ひと粒の働きが連鎖するか、しないか。それがひとつ異なるだけで全く異なる結果へ繋がります。崩れるときは何を起点とするでもなく、ひとつひとつの働きと、全体のうごきが複雑に絡まって、ただ臨界点を超えて、大きな流れとなっていきます。一見して無秩序に見える現象は法則性と偶然性を宿しています」
ハルは話を切ると、散乱した米を袋に戻し始めた。華奢な手のひらが要領よく米を運んでいく。そして二人の反応を伺っているようであった。歩に理解できたのは、ハルが老人の肩を持っているでも、歩を擁護しているでもなく、何かまったく違ったことを言っているようだ、ということだっだ。歩が自分は米ではなく人であることを取り戻していくと共に、この米袋を買い取ることになるのかとか、不安に思い始めていた。けども、いまそれをたずねるのも無粋に思われて、やめた。老人も同じように感じていたのだろうか。グラスを拭く手が止まっている。ハルの狼藉を咎める様子も無く、考え込んでいるようにも見えた。
「つまり・・・どういうこと?」
歩はそう聞くしかなかった。
「歩」
ハルは歩をまっすぐ見つめ、やさしく名を呼んだ。
「すべてのヒントはすでに揃っています。あとは気付くだけです。必要なのは分かることではありません。気付くことです」
ハルはすっかりお米を片付け終わると、米袋を空いている席に置き、歩の横に座り直した。
「マスター、もう一杯」
「あいよ」
二人は何事もなく「クラブ・ギーター」の日常に戻り、歩はひとり取り残されたような気持になった。老人はハルの話を理解しているのだろうか。
「自分も、もう一杯」
「あいよ」
老人は用意していたかのようにマティーニを取り出し、テーブルの上を滑らせた。歩はやけっぱちな気分になってきて、えいっとグラスをあおった。そしてもぞもぞとオリーブを噛む歩の顔を、ハルは相変わらず穏やかな顔で眺めている。歩はため息をついた。
歩の拒絶
「なんか、頭がいっぱいになっちゃった。だいたいずっと上から目線で、何様なんだ?」
歩はついそうつぶやくと、キレている自分に驚いた。こんなふうに感情的になったのは久し振りかもしれない。それは老人への怒りだったのかもしれないし、超然として要領の得ないことを言うハルへのねじくれた思いだったのかもしれない。いまさらながら自分が米であることを素直に受け入れたことを恥ずかしくなってきて、何かに苛立ちをぶつけずにはいられなかった。歩はうつむくと、無垢材のテーブルにちょこんと鎮座する白いおしぼりに目を遣った。このいびつなおしぼりだけが味方のように感じられてきた。ハルのおしぼりはあいかわらずきれいだ。ハルも老人も黙っている。店内の曲はまたジャズに戻っていた。アコースティックなギターの音色が自由気ままに跳ねている。その音符の合間をぬって、
「(お隣りの△◆ちゃんは器量も要領もいいのにね)」
そんな声がどこからか聞こえてきて、幼い頃の記憶がフラッシュバックした。母親にそう言われると歩はいつも居心地悪そうに肩をすくめるだけだった。けども歩のおしぼりは違った。怒りをあらわにしているようだった。
「(私は△◆ちゃんじゃない!)」
それは歩の代弁だったのだろうか。ずれたおしぼりの折り目がカッと開き赤い口腔が覗いた。おしぼりは牙を剥き、ハルのおしぼりに嚙みつかんばかりに迫っている。でも、ハルのおしぼりに罪がないことは歩にもわかっていた。
「やってらんない」歩は相変わらずキレた口調でつぶやくと、おしぼりを手に取り、なだめるように丸めると、老人に放った。
「換えて」
老人は寛大にほほ笑むと、新しいおしぼりをテーブルに置いた。ぴっちりと整えられ、袋に入ったおしぼり。
「つまり、分かりやすくいうとだね・・・」
老人が突然しゃべり出した。
「まず光が物にあたって反射する。光は網膜上の受容体細胞、錐体細胞と桿体細胞に当たる。光が網膜の受容体で刺激された後、視神経を通じて視床に信号が送られる。視床は視覚情報のフィルタリングや統合の役割を果たす。このあたりは人間のご先祖様の動物とも共通している部分が多い。単純化していえば、進化していく中で脳みそを増築していったわけだ」
老人の突然の講釈はしかし、これまでに老人がしてきた主張と比べれば明瞭で、歩も理解しようという気持ちになれた。それは老人なりの不器用な釈明だったのかもしれなかった。
「より高次の情報処理を担うために増築されていったのが大脳皮質だ。大脳皮質の後頭葉、後頭葉皮質で、視覚情報が最初に処理される。視覚情報は視覚野と呼ばれる特定の領域で処理され、基本的な視覚特性、輝度、色、方向などが抽出される。後頭葉から視覚情報は頭頂葉、頭頂葉皮質に伝わる。ここでは、さらに詳細な視覚処理が行われ、物体の形状や動き、位置などの情報が解析される。頭頂葉からの情報は、側頭葉、側頭葉皮質にも送られる。ここでは、視覚情報が意味解釈され、物体やシーンの認識が行われる。最終的に、視覚情報の一部は前頭葉に到達する。前頭葉は高次の認知機能を司る部位であり、情報の計画、実行、調整などを担当する。視覚情報はここで他の感覚情報や記憶、意志決定と統合され、行動の指示に影響を与える。そして、おまえさんの前頭葉を注意深く割ってみると、そこに小人がいる」
老人が講釈をしている頃、歩の脳内ではホムンクルスがぐったりとうなだれていた。脳みその様々な領野から大量の情報が入ってきて、それらの対応で大忙しだったからである。昨日まではとても楽だった。社会に最適化された脳の配線は出来上がっていて、ホムンクルスが指示を出すことはほとんどなくなっていた。稀に無力感や不安への対処が必要となることもあったが、ゲームか適当な動画でも見させておけば、各領野にドーパミンが行き渡り、簡単に不安をかき消すことが出来た。それが今日はこれまでの配線が役に立たず、次々やってくる緊急要請に忙殺されていた。カレーの匂いがする度に辺縁系が反応し、今はそれどころじゃないとホムンクルスはキレ散らかし、食への欲求をかき消していた。最適化された配線はいくつか壊れてしまい、ついには、おしぼりが意思を持って動き出すようにまでなってしまった。あまりの事態にホムンクルスは「怒り」の信号を脳全体に伝搬し、強制リセットさせた。リセット後、ようやく落ち着いたと思っていたホムンクルスの元に老人がホムンクルスの話をしていると情報が入った。
「ホムンクルス?」
「頭のなかにいる小人さ。この小人は脳を通して世界を認識している」
「それで、どうだっていうの?」
「この世界は脳が創り出した幻想だ」
「それと今までの話、どうつながるの?」
vs ホムンクルス
このときの歩は老人と分かり合えるかもしれないと希望を見ていた。そして逆にハルが遠く感じられてもいる・・・
「人は見たい世界を都合よく創り出し、その中で善人のように振る舞っている。若い人よ。本当は分かっているんだろう?」
ホムンクルスはこの質問は考えるべきでないと瞬時に判断した。老人が何の話をしているかを考えることは今まで学習してきた脳の配線を壊してしまう。適度な好奇心は状況への適応力を高めるために重要であるが、今はむしろ悪影響であると認識していた。ホムンクルスは慌てて神経細胞に赤黒い伝令を流し込み、筋肉に緊張を、感情に老人への敵意を命令した。
「わ、わ、分かってるって何を?分かるわけないだろう!何も言っていないのに、分かるはずがない。ちゃんと丁寧に説明してくれよ!勝手な決めつけはやめてくれ!不愉快だ!」
思わず歩はその場に立ち上がり、老人を指差しながら叫んでいた。歩はこの時、地面がゆっくり揺れていることに気がついた。電車の振動がここまで来ているのか、ずっと船に乗っていた後のような気持ち悪い感覚が残っている。歩は指した指を収める先も分からないまま、とりあえず静かに降ろしたが、一人立ち上がっている状況の居心地の悪さはそのまま残っていた。このまま帰りたいと思ったが、足がうまく動かない。ホムンクルスは筋肉の緊張を急激に送り込みすぎたことを後悔し、少しリラックスをするように促した。
「マスター、この店にはいろいろな曲がかかっていますね」
ハルは突然話題を変えた。老人はぴくりと眉を動かしたが、平静を装ってか、癖のように乾いたグラスを磨き始めた。歩はハッとした。たしかにそうだ。曲はずっと一続きに鳴っているようで、シンセからピアノに、ピアノからギターに、そしてまたシンセにと、時代もジャンルもいつのまにか変わっていくのだった。今はすごくシンプルな音楽に変わっている。間隔の異なるメトロノームの音がいくつか鳴る中に高い音のサイン波が持続しているだけの音楽。正直、音楽と呼ぶのかどうかもよく分からない。店の外から電車の残響音が聞こえる。地面の揺れがまだ収まらない。心なしかもっと大きくゆったりとした波になっている気がする。地下街が低くうめくような音は遠くで爆撃でもあるかのような気持ちにさせる。メトロノームの音と心音の区別もつかない感覚に陥る中で、サイン波の微妙なゆらぎに注意が傾く。
「歩」
ハルは歩をまっすぐ見つめ、やさしく名を呼んだ。
「すべてのヒントはすでに揃っています。あとは気付くだけです。必要なのは分かることではありません。気付くことです」
ハルは少し前に自分で言ったことと同じセリフを一字一句変えることなくもう一度言った。ホムンクルスは素早く「気付くこと」を避けるように、しかし、筋肉はリラックスを維持するように、慎重に司令を出そうとした。とはいえホムンクルスはすでに満身創痍でしわくちゃになっていて、繊細な司令を出す元気もなかった。身体予算を過剰に使ってしまっていることも少し気になっていたが、それに気を回すのも疲れていた。ホムンクルスはとにかく昨日までの楽で何もしなくていい生活に戻りたい、それだけを考えていた。考えることを放棄し、安全地帯に戻ることを最優先しようとした。
「もう帰らなくちゃ。明日、仕事があるんだ」
「歩。あなたの善良さの内に私は認めます。それは反省なき社会生活の結果でありつつ、あなた自身が社会システムを生成する場として機能していると」
ホムンクルスはぐったりしながら、手近なところで自分を正当化するものがないかを探していた。
「そういえばハルは訪問販売の業者だろう。うちのオフィスにたまにやってきて健康のためとかなんとかの飲み物を売るだけの。あんな誰でもできる仕事をしているだけの人間がなんで上から目線なんだ。私は自分しかできない大切な仕事をしているんだ。そのためにコツコツ地道な勉強を一杯して、周りには要領がいいだけのやつとかもいたけど、自分は真面目にやってきて・・・」
「あんた、社会に決めてもらわないと自分が何者か分からないのかい?」
「どうせすべて幻想なんだろう!」
「いくらでも都合良い幻想を生み出して、それを信じることができるということです。しかし幻想は醜い。美しさは現実の世界にのみあるのです」
「うるさいな!米を床にばら撒くやつが上から目線でしゃべるな!」
「自身を米と同化させていた時のあなたは世界をそのまま見ようとしていましたね。ひと粒のお米から見える景色を信じ、ひと粒のお米としてするべきことに専心するべきです。あなたは自ら作り出した鉄の檻の中に閉じ込められています。それはただの「楽」であって、むしろ「自由」とは一番遠いものです」
異常事態でホムンクルスの部屋は崩壊寸前だった。ホムンクルスは床に這いつくばりながら前進していた。その向かう先には妙な穴があった。壁が壊れて現れたその穴を覗き込むと何かがあるような気がするが、暗くてよく見えない。少なくとも落ちたらもう今の場所に戻れないという恐怖だけがそこにあった。
老人が流していた音楽がエンディングに近づくと、メトロノームの音は順番に止まっていき、サイン波のピーという高音だけが残っていた。ハルはウィスキーのグラスを口に持っていき、一口含み、また机にゆっくりと戻した。氷がグラスとぶつかる。その振動はグラス中を駆け巡り、グラスの円周をぐるぐる回る。その回転の中で、様々な周波数を含んでいた振動のうち特定の波動だけが選別される。波動は空気に伝わり、空気から鼓膜へ。鼓膜から中耳、蝸牛、聴覚神経を経て脳に情報が伝わる。前頭葉はその音をどこにでもあるカランという音だと一瞬で判断し、特段対応が必要ないと片付けようとする。しかし歩の壊れかけた脳の配線はその音の中にあるゆらぎを見逃さなかった。ウィスキーグラスの円柱が作る基本の周波数に加えて、ガラスの材質と職人が極地とみなした造形がつくる非線形のゆらぎ。それが何かは歩には分からなかったが、何かであることをホムンクルスへ伝えた。その情報は確かな強度を持っており、ちょうど穴を覗き込んでいたホムンクルスを支えていた場所を直撃、破壊した。支えを失ったホムンクルスは穴に落ちる。それと同時に既存の秩序に最適化された歩の脳のすべての配線が切断されていった。歩は成人の肉体を余すことなく活した産声ともいえる咆哮を上げ、老人は自らかけた音楽に重ねてその音に聞き入った。