シーラの深海
平坦な戦場

店内

「クラブ・ギーター」は思いのほか狭い店だった。風景に染み付いたような老人がカウンターで煙草をふかしている。老人はどぎつい水玉のドレスに厚化粧を施しやたらと大きなサングラスを掛けていた。カウンターの背後には、ダンスでも踊るためか、多少のスペースがふるめかしいミラーボールに彩られている。クラブというよりも場末のスナックという感じだ。クラブにもスナックにも馴染みのない歩には判然としかねた。

老人は二人をちらと一瞥すると

「ナマステー」

と言った。いや、

「らっしゃい」

とでも言ったのかもしれない。いずれにせよ音楽に掻き消えて不明瞭に響いたのだった。そのディスコなのかバーなのかよく分からないひなびた空間を歩は心の中で笑ってしまった。

「(自分のほうがよっぽど現代的だ)」

ハルの言葉もハルとの関係性もまだふわふわしているように歩には感じられたし、どこか遠い世界に来てしまったような不安感もあったけども、歩は少し心の安寧を取り戻した。

「このスペースは・・・踊りでもするの?」

歩は老人に尋ねた。すると老人はニヤッと笑った。

「そこは・・・平坦な戦場だよ」

歩の頭はまた混乱し始めて束の間の優越感も消え去ってしまった。ハルばかりではなく老人までもがなぜ謎めいたことばかり言うのだろう?

「ま、まずは一杯、いかがかね」

老人は愉快そうに二人をカウンターへ誘った。歩はついいつもの癖で「まずはビールでも?」とハルに尋ねそうになった。けどもカウンターに腰掛けたハルは老人の背後に並んだ蒸留酒の壜を楽しそうに眺めていたのでやめた。壁には変わった形をした壜がずらっと並んでいる。ここはこの老人がとにかく好きな物を集めた場所なのかもしれない。

歩は

「(クラブでビールもないか)」

と思い返して言葉をひっこめた。

「なんでもまずは言ってみることだよ」

と老人がやさしく言った。その言葉は不思議と歩の緊張をほぐした。

「マティーニを」

歩はとりあえず思い出した名前をつぶやいた。

「(たしか有名なカクテルだったから、恥ずかしいこともないだろう)」

ハルはウィスキーのロックを注文したようだ。

「そうだ、カレーも作れるよ。とびきりスパイシーなやつがね」

と老人はつぶやくとおしぼりを二人の前に置いた。おしぼりやカレーがふつうのクラブでも提供されるものか、歩にはやはり判断できなかった。

クラブでの問答

歩はおしぼりで手を拭くとほっとため息をついた。マッチングアプリで出会って、当たり障りのないデートをして、すぐに平穏な日常へ戻るつもりだったのが、こんな冒険じみた散歩になるとは思わなかった。歩はハルをどうしたいか分からなかったし、ハルが歩をどうしたいと思っているのかも判然としなかった。そもそもハルの素性も性格もまだ掴めていない。歩はしばらくおしぼりをこねくり回していたが、観念してていねいに畳んだ。ふたつ並んだ歩のおしぼりとハルのおしぼり。歩はハルのおしぼりがあまりにも美しく畳まれているのに気付いて、なんだか自分のおしぼりがハルのおしぼりに嫉妬しているように思えた。

「少しくらい端がずれててもいいじゃないか」

歩はついつぶやいてしまった自分の声に驚いた。はたとハルを見ると、ハルはゆっくりと首をかしげて歩を見た。ハルは相変わらず怪訝の陰もなく柔和にほほ笑んでいた。

「ええと・・・」

歩はこの独り言をどう説明したものか迷った。そのとき、いつの間にかハルの前に置かれていたウィスキーのロックグラスがカランと音を立てた。その澄んだ音に歩は正気を取り戻したような気がした。

「よい音です」

ハルはロックグラスの氷をくるくる回しながら言った。

「ガラス製のグラス。この模様が響きを作っています」

ハルはそうつぶやいてウィスキーを口にした。

「(考え過ぎじゃないか)」

と歩は思った。けども言われてみれば音はそれくらい豊かだったかもしれないとも思った。響きを考えてグラスを作る人がいてもおかしくはない。

「はい、おまち」

老人が歩の前にマティーニを差し出した。歩はマティーニをちろっと舐めると、想像より辛口だったのでむせないように深呼吸をした。

クラブには音楽だけが満ちていた。音楽はジャズだっただろうか、しかし電子音楽が混じってもいるようだった。フュージョンとかエレクトロスウィングとか、いちおう音楽配信アプリで聞き流していたけども、歩には判断することはできなかった。歩はハルがシンセサイザーの話をしていたのを思い出して音楽の話題を振ってみようと思案した。ハルは歩の気苦労を余所に沈黙を楽しんでいる様子だったので歩は憎たらしく思った。

「そういえばむかし、好きだったアーティストが覚せい剤で捕まっちゃった。あんなのに依存するなんでばかみたいだ」

「ばかみたいですか?」

ハルはほんとう、ただ純粋に興味があるといった様子で訊き返した。

「だって、・・・」

歩は言葉に詰まった。すると突然、老人が口を開いた。

「覚せい剤は自然に経験しえない大量のドーパミンが放出されて、脳の受容体の正常な動作を壊してしまう。覚せい剤を悪として罵倒し自分の正義への同調によってドーパミンが出ている人たちもまた社会的麻薬にやられている。マスメディアは現代の麻薬の売人だ。彼らも自己再帰的に麻薬にやられている。戦争に行ってPTSDになる人も異常な脳内物質の放出による脳の受容体の崩壊を経験する。戦争に適合して、殺人を愉快に行う人もいる。彼らもまた社会的麻薬にやられた病人である。他者に対する優越を求めて動く摂理に従う機械だ。そういう病人の量産システムが出来ている背景に注目すべきだ。システムに抗えているか?あなたが覚せい剤への依存を笑うとき、あなたも同じようにしてもっと愚かなものに依存していないか?」

歩は突然の饒舌に面食らい、老人の早口をゆっくりと反芻した。そんな歩をハルはおかしげに見つめている。とにかく何か批難されたことは理解した。老人は何事もなかったようにグラスを拭いている。歩はなんとかこの場に丁度よい言葉を探していた。

「しらないけど、覚せい剤が悪いことは変わらない」

老人は視線を上げて歩を睨め付けた。歩はまたマシンガントークが飛んでくるかと思わず身構えたが、老人はニヤッと笑って穏やかに言った。

「なぜ悪いと思うかね?」

歩はまた口をつむいでしまった。そういえばハルにも同じように訊き返された。いつもなら「悪いよねー」で済むというのに。自分が何か言わなければ何も進まない場面に歩は初めて直面していた。歩がなにも言わなければ老人はもうぴかぴかのグラスを無意味に撫でまわしてたろうし、ハルはマイベースにウィスキーを啜ったり爪の先を眺めたりしている。歩は考えた。考えてみれば知らない誰かが中毒者になったとて歩の知ったところではないし、家族が依存症になったら面倒だろうけども、それは麻薬でなくても同じだ。健康面はどうだろう。でも、不健康が悪いと言うのは、丈夫なひとの傲慢だという気もする。

そもそも善悪に規準などあるのだろうか。悪いものはただ、悪い。誰も彼もがそういうふうに思っているだけなんじゃないか。

「理由なんかないよ、そう思っているだけだ」

歩はそう答えて、ちらりと老人の顔色を窺った。

「その判断基準は社会に植え付けられたものだ」

と老人は言った。

「人は何が正しいか考えない。何が都合よいかを考える。人は自分にとって都合のよい正義を選択する。巨大な力の下で何が破壊されるか見ようとしない。もし見えそうになったら拒絶する。都合のいい部分を切り取ろう、他者を非難して自己正当化しようと考える。自己正当化に都合の良い弱者を探す・・・」

老人は舌鉾するどくまくし立てた。それは歩を非難する口調ではなく、なにか、漠然とした大衆に向けて演説しているかのようだった。けども老人の歩を見ているようで見ていないどこか定まらぬ目つきを歩は腹立たしく思った。

「何も考えちゃいない、ほんとうにただそう思っているだけだ!」

老人は何も言わなかった。歩は唇を噛み、視線を落とした。老人の代わりに口を開いたのはハルだった。

「そう、だれもがただそう思っているだけです。判断し思考する主体、自我とは認識の光にできる陰、幻影です。幼少期から摂取されてきた他者の蓄積です。自我とは他者の寄せ集めなのです。それを文化と呼ぶ人もいます。人は文化によって作られた知覚を自我と認識します。人は文化の寄せ集めに、多少のゆらぎを加えたものなのです。眼が目を視覚しないのと同様に文化の中で育った人間は文化を疑問に思いません」

「誰もが考えようとしない!」

ハルが話し終えるやいなや、老人が息を吹き返すように話を再開した。

「自分の生活が許されていないことは本当は理解している。勝手に許容範囲に収まっていることにしている。そこからはみ出したものの集積が社会問題につながっている。だから自分が許されている側であると思わせてくれる存在にすがるようになる。脳みそは極めて優秀で、都合が悪そうか否かの判断は迅速に行われる。都合が悪ければ脳から削除するため、意識することができない」

歩はすっかり困ってしまった。頭がぐるぐるまわって来たし、それは手持ち無沙汰に啜っていたマティーニに酔ったのかもしれないが、二人の話の脈絡のなさと理解できなさの中で困惑していた。

「社会問題なんて言ったら、悪いのは政治家だ」

歩は苦し紛れにそう反論した。老人は取り合うことなく黙り込むと、すでにピカピカのグラスを磨き始めた。歩はちいさくため息をつくと、隣に座っていたはずのハルが姿を消しているのに気付いた。トイレにでも行ったのだろうか。まさか何か気に入らないことがあったとしてもとつぜん居なくなるタイプには思われない。クラブの曲はクラシックなピアノ曲に変わっていた。調子のよい音符がハルの不在を埋めていく。

「これは誰の曲?」

歩は老人に尋ねた。

「バッハだよ、若者よ」

老人は厚化粧を歪ませ微笑みながら言った。そしてピクッと身体を振るわせるとサングラス越しにどこかを凝視した。老人の視線を追うと、ハルが店の入り口で、ちいさな米袋を抱えて屹立していた。そして老人が止める間もなく米袋の上部を小さく切り取り、その切り取った部分を下に傾けていく。袋の中の細長い米は重力に従って次々とこぼれ出し、宙を落下し、そして、床に降り積もっていく。クラブの不思議なスペース、老人の言う『平坦な戦場』に。