シーラの深海
シマエナガが飛び立つ頃

始まり

あゆむはスマホを眺めてため息をついた。マッチングアプリに記された待ち合わせ時間はとうに過ぎている。もともとさしてやる気もなく始めたマッチングアプリ、デートまでたどり着くのには難儀した。メッセージのやりとりが続かずすぐに途絶えてしまう。だれもかれもが高い望みに飢えているようで、歩は厳しい評価をくぐり抜けることはなかなかできなかった。そのうちAIに添削してもらうようになったら、多少はやりとりが続くようになった。しまいには全文をAIに任せて、それでようやく約束をとりつけた。今日これから出会う人はAIが引き合わせた人なのだ。

正直、眠い。昨晩は遅くまで今までのメッセージのやり取りを見直していた。今更ながらAIに任せることの不誠実さに罪悪感を持ったからだ。アプリでメッセージだけのやりとりをしているうちに、相手が人格を持ったひとりの人である意識が薄れてしまっていた。大きな嘘はないとはいえ、言葉の細部に人柄は出る。それを詐称してデートするのは相手に失礼だろう。実際に会ったら、きちんと相手にそのままの自分を見てもらおうと心に決めた。と同時に見てもらうべき自分なんてものがあるのか、陰鬱な気持ちになる。

結婚する気ははじめからなかった。けども婚約を決めた友人たちはころりと態度を変えて独身者を見下してくるし、パートナーに振り回されながら子育てに苦労する同僚は私を墓場の道連れにしたがっている。両親とは会わないようにしているが、会えば孫の顔を見せろとうるさい。ずいぶん虫のいい話と思いつつ、しかし三十路の手前、回りの空気に押されてマッチングアプリに登録してしまったのだ。待ち合わせ場所に指定されたのはとある公園。昼下がりの喧噪、春の陽気も、散りかけの桜も、くだらないモノクロームの背景にしか映らなかった。上司を適当なお世辞であしらい、曖昧な笑顔で同僚と談笑し、自宅の乾いた時間はゲームや推し活でつぶす・・・。そんな日々が続いていけばよいと思っていた。誰ともすれ違わず、誰かを傷つけることもなければ、傷つけられることもない平穏な日々が。

公園の駐輪場を通り抜けようとしたとき、けたたましい音が響いた。子どもが自転車を何台かドミノ倒しにしてしまったようだ。

「(やれやれ)」

歩は走り去る子どもを目で追いながら倒れた自転車を前に立ち止まった。倒れたままにしておくのも後ろ指をさされそうな気がしたし、どうせ数台の自転車、さして時間も掛からない。歩は倒れた自転車を元に戻すことにした。ミニベロ、クロスバイク、ママチャリ、・・・。

どこやらか現れた若者が歩を一瞥し、よく手入れされたクロスバイクを手にした。何か運命的なまなざしのようにも感じられ、歩はついドキッとした。

「(そんなわけない)」

歩はひとりごちると首を振った。おおかた自転車泥棒を疑う嫌疑の視線だったのだろう。心の底に隠していた不安がさらけだされたような気がして恥ずかしくもなった。若者は歩に何の関心も払わず走り去っていった。

出会い

歩は待ち合わせ場所となっていた時計台を眺めた。煉瓦の塔に背中を預けてその人は座っていた。こんどはすぐに直感できた。中学生のような素朴な髪型と飾らないジャケットで、ぼんやりと空を見ていたようだった。アプリではお互いに顔を公開していなかったけども、文体もそんなふわっとした感じだったのだ。

「遅くなってすみません、歩です」

歩はできるだけ明るく声を掛けた。なにかを期待していたわけではなかったけども、ネクラな印象を与えたくなかった。相手はすぐに目を合わせてにっこりとほほ笑んだ。歩はその瞳の黒さにドキッとした。まるで宇宙の深遠に飲み込まれるかのようなそんな錯覚すら覚えた。

「ハルです」

しばらく歩は静止してしまっていた。ハルに見覚えがあったのだ。思い出せないながら、知っているということだけは確信していた。その間ハルは表情を変えることなく、歩をただ見つめていた。降り立ったシマエナガがふたたび飛び立つ頃、歩は記憶を探り当てることができた。

「あっ!あの、訪問販売されてましたね?私のオフィスで、えーっと・・・」

そのときは業者の制服を装い、まったく雰囲気が違っていたので気付かなかったのだ。帽子を深く被っていたのでその印象的な瞳を覗く機会はまったく無かった。

「そうだそうだ。職場で何度か会ってますよ。覚えてます?話したことはありませんでしたね」

ハルはふにゃっと表情を崩した。歩はその顔を見て、この逢瀬がどう転んでもさほど激烈な結果は引き起こさないだろうと、ひそかに安堵した。当たり障りなく元の日常に戻れそうだと・・・。ハルは歩を傷つけるようなことはしなさそうに思えたし、歩も不用意にハルを傷つける心配はなさそうに思った。

「どこへ行こうかな」

歩はハルの顔色を窺うようにして言った。ハルは無表情と微笑みのはざまで相変わらず柔和にたたずんでいた。それは歩への無関心だったのかもしれないし、歩がどう切り出すのか楽しんで待っていたのかもしれない。委ねているでも突き放しているでもない態度は却って心地よくもあった。

「海岸街区はどうかな」

歩は言った。上司がかつて若い頃に遊びに行ったと話していたのを思い出したのだ。

「いいね、行くのは初めてです」

ハルはまたふにゃっと笑うと踵を返して歩き始めた。

移動

ハルは歩よりも少し背が低かったけどもスタスタと先を歩いていく。ときおり目の端で歩を見やってはほほ笑んでいるのが分かったけども歩はついていくだけで精一杯だった。ジャケットもシャツも、その下のパンツも縫製の跡を感じさせない無地で、すずしげにはためく。おしゃれの服なのか、普段着なのか歩には判断しかねた。歩自身はいちおう小奇麗にまとめてきたつもりだし、昔、ユニクロのマネキンみたいだと言われたこともあるが、自身のファッションセンスを「悪くはない」と自負している。背伸びして買ったグランドセイコーの腕時計も手首に光っているけどもハルは歩の装いを気にもかけていないようだった。

歩はもやもやと互いの服装や気持ちを天秤に掛けながら、ハルの後を追いかけていた。

「(自分とおなじで、そんなにがっついているわけじゃないのかな)」

と歩は思った。

「(でもこの溌剌とした歩き様はじつに楽しげだ)」

とも。

「ねえ」

歩は沈黙に耐えきれずハルに声を掛けた。ハルは歩調を緩めた。歩は次の言葉を探して焦った。

「ハルはどんな服が好き?」

出てきたのはそんな当たり障りのない質問だっだ。馬鹿にされるかな、と歩は不安になった。けどもハルは微笑みを絶やさずに答えた。

「私は切れ端の出ない服が好きです」

「どういうこと?」

「繊維から編み上げられた服は切れ端が捨てられることもありません」

そう言うとハルは服を見せるように手を広げた。たしかにジャケットもパンツも縫い目なく、一枚の織物としてハルの身体を包んでいた。

「気にしたこともなかった」

それは素直な感想だった。

「見えるものはいつも捨てられたものを覆い隠しています」

ハルはそういうと辺りを見渡し、むき出しになったビルの鉄骨に目を留めた。歩はハルの視線を追って始めて周囲の景色が様変わりしているのに気付いた。二人はいつしか海岸街区に到着したのだった。海岸街区はビルの廃墟が閑散と立ち並び、どこからか聞こえる潮の音が開けた空間を満たしているだけだった。

「(しまった)」

と歩は思った。

「昔、海岸街区の開発に失敗したってニュースでやってたのに、すっかり忘れてた」

と歩は言い訳がましくつぶやいた。この様子ではどこやらで商業施設が営業しているとも思われなかった。

「海にでも出てみようか。どこかに案内図は・・・」

歩は振り返えると、腰を抜かしそうになった。巨大なシーラカンスが二人を睥睨していたのだった。シーラカンスの袂からは階段が延び闇に消えていた。

「ここは・・・地下鉄の入口?あ、それとも、水族館?」

歩は突然のシーラカンスに戸惑いつつ、納得できる答えを探して逡巡した。

「答えを知りたければ、行きましょう」

ハルは躊躇なくシーラカンスの懐に姿を消した。歩はあわてて後を追った。

「こんなところを提案しちゃって・・・」

歩の声は階段を幾重にも反響して響いた。階段は思ったよりも深そうだった。実際、地下への階段は何度も踊り場を折り返してなかなか終わらなかった。ハルは歩を咎める様子もなく跳ぶように下っていく。

「こんなに長い階段は初めて!」

歩は思わず叫んだ。緑色に点滅する非常灯、薄暗い階段のしみが少しずつ変形して、その異常に気付かなければ一生出られないのではないかと、そんな妄想が脳裡をかすめた。ハルはマイペースに先を行っているようで、けども置いて行かれそうになるという気持ちにはけっしてさせなかった。踊り場の先へ消えるハルの影を追って手すりにしがみつきながら何度もUターンしているうちに歩はだんだん頭が回ってくるような気がした。そのリズムは子どものときにテレビで観たアフリカの土を踏み鳴らす宗教行事を思い出させた。もう何十年も忘れていた遠い地の陶酔が歩を満たしていた。

「(あっ)」

っと、歩が足を踏み外すと、いつのまにか振り返っていたハルが抱き留めてくれた。歩の転倒を予期していたかのようだった。

「(いつのまに転んでもいいようにしていたのだろう)」

そんな疑問も心臓の早鐘に掻き消えていった。

「ここからシーラの深海ですね」

ハルはすずしげに言った。階段室の先は光に満ちていた。歩は目をしばたたかせた。なんてことない、駅にあるような地下街が広がっていた。

「こんなところに地下街があるなんて知らなかった」

「新しい知は知らない場所から生じます」

歩は返答に迷ったが、その言葉は自然と心になじんだ。

地下街はしかし地上とおなじようにさびれていてシャッターの降りているのが目立った。きれいではないが不快感はない。排水管が残すシミがなぜか生々しく、地下街の分泌液であるかのように錯覚した。近くを地下鉄が通っているらしい。轟音が通過した後も、地下街の構造と共鳴し、さまざまな残響音が響いている。まるで地下街が大きな生き物となってゆっくりと蠕動しているかのようだった。歩は人目につかぬところでなにか良からぬ行為に巻き込まれるのではないかと不安になった。だいたいハルは初めての場所だと言っていたけども、まるで馴染んだ通学路のようにすいすいと進んでいく。ハルの態度はどこか子どもに邪心を感じさせない人さらい(バイドパイパー)のようでもある・・・。それでも歩はただハルに導かれて歩いて行った。地下街はどうやら通路が微妙に傾斜していて、気付かないうちに階を昇ったり降りたりしているようだった。というのもぐるぐると回っているのに少しずつ景色が・・・シャッターの色や空のショーウインドー、ひそやかに営業している飲み屋などが・・・変わっていったからだ。

地下街にはどこか聞いたことのある古びた音楽が掛かっていた。90年代のJ−POPをインストゥルメンタルに編曲し直したものだろう。BGMに乗せて

「海岸街区地下街、シーラの深海は、みなさまの明るく楽しい生活を応援します・・・」

そんな放送が機械的に繰り返されていた。

「シンセサイザーの音、プリセットから少しいじってあるようですね」

ハルが不意に言った。歩はぽかんとした。ハルはそんな歩を眺めてほほえんだ。

「ほら、この曲の、音色。ちょっといじらないとこんな鳴り方はしない」

歩にはよくわからなかった。歩にとってそれはどこにでもある音楽だった。

「できあいの音じゃ満足できなかったんだ」

歩は分かったようなふりをして話をつなげた。

「完璧と思われるものに手を加える自我は世界に揺らぎを残します」

つぶやくように話すハルの行先は立ち止まりだった。ぼんやりと輝くネオンには『クラブ・ギーター』と記されている。音楽と踊る光がかすかに店内から洩れていた。

「クラブ・・・始めて来るね。昼からお酒か・・・たまにはいいかも」

歩は人気のない地下街への不安と、未知の経験を前にボソボソと自分に言い聞かせるように呟いた。とにかくどこかに腰を落ち着けたかった。

「地上の秩序は無用でしょう」

ハルはそう言うと店の中へ入っていった。歩はハルの言葉を理解する暇なく後を追った。